○○などどうでもいい


○○が大事だ。とは書ける。言える。
だが嘘だ。


大事なものなどない。本当に大事なものは、書けないし、言えないし、そんな作業と無関係に「失われない」からだ。誰からも、けっして、失われない。


だから自由というのは保障されている。
その○○と私が分離している(可能性がある)、と思うなら、その○○と私の間の分離の事実関係を検証するのに血眼になる。


つまり分離している「かもしれない」と意識が思うのなら、検証は(個人的な意識上の)義務であり、旅の過程であり、必然だ。


分離という世界観と親和性をもって、「うまく生きていこう」と誰もが努力する。
でも、途中で諦める。心の中の虚しさは、どこまでいっても埋まらないから限界をむかえる。


誰かが、なにかを言うとか、するとか。
その動作の中に重要な意味をもつものはあるかもしれないし、ないかもしれない。
重要か、非重要かはわからないが、いまあるものがここにこうしてある。


立ち去りつづけてしまう自分は過去からずっと続いているのだから、


昔と今の自分が違うとしたらそれは、


立ち去りつづけてしまう自分を自覚しながら(立ち去りつづけているのかどうか)という点になる。もしも無自覚なら、それは過去の自分と変わらない。
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