今よりも深く祈ったり、自分をもっと浄化したり、より敬虔な生活をしたりすることができる、という考えは誤っています。あなたはすでに浄化されており、敬虔であり、祈りに満ちています。
あなたという”存在”の持つ、純粋ですばらしい基本要素を取り出して、それをちがう形にねじ曲げてしまうのは、あなたの思考する頭なのです。ときにはねじ曲げられた形は不快な形です。


朝起きて、「今日一日、夫(妻)に対してやさしく接するように努力しよう。心を大きく開き、ものごとの本質をはっきり見るように努力しよう。平和と愛と喜びと美で自分を満たすように努力するのだ」と心に決めます。じつはそのあいだ、エゴは嘲笑しているのです。なぜならこの<努力する>ということこそが、エゴが望んでいる態度だからです。エゴは、あなたがこのねじ曲げられた形から目をそらさず、それを元どおりにする努力を続けることを望んでいます。


あなた方がここで理解するようになるのは、どんな感情もどんな考えもどんな行動も<それ>である、ということです。<それ>というのは神のことです。あなたの一部が新しい体験を求めているあいだ、別の部分はすでにそれを体験しているのです。自分の”存在”のうちで<ただ体験している>部分とつながることができると、あらゆることに喜びを感じるようになります。たとえ死ぬほどの恐怖や煮えたぎる怒りのまっただなかにあっても、それを喜んで体験している部分が自分のなかにあることを感じるようになります。あなたのなかの最も深い部分は、善と悪、快と苦とを区別しません。ただ体験していることを感じているだけです。


これまで人は、自分の体験に名前をつけるように教え込まれてきました。その結果、自分の体験について考えるという作業に一生を費やします。
「あの感情は嫉妬であり、嫉妬はいけないことだ」
エゴは、あなたが何かを体験するのではなく、体験について考えることを望みます。


エゴはあなたが問題を定義づけることを喜びます。
「私の悪い点は、やさしさに欠けていることだ」


問題を定義づけるやいなや、エゴはそれを念頭から追い払ってしまいます。定義してしまったらそれでおしまい、というわけです。さもなくばエゴは、その問題を際限なく頭で分析するという作業にあなたを従事させます。どちらにしろ、あなたはもうそれを体験していないわけですから、失敗です。


それぞれの人生の瞬間を味わいつくすということこそが、神であるということなのです。人生のそれぞれの瞬間を実感するには、どんな意識状態になくてはならないか、に気づく必要があります。


それに達するための第一歩は、思考がいかにその邪魔をしているか、ということに気づくことです。頭はさまざまの手を使ってきますが、どの策略もじつはおなじです。これらの策略が、固定化した考えのパターンを形成していて、それが人をみじめにするのです。


こうしたパターン化した考えが、あなたの関心を引いては、日々の生活に緊張を生み出します。これらの考えが集まって、群れを形成します。そして人は、できごとをあるがままに体験するのではなく、異なった考えや行動を取るように習慣づけられます。



今日書いていることは基本的なことばかりなのに、以前とはまったく意味が違って見える。私は炎を探しているのに、どこかで素通りしてきた。どこで、だろう。そのすれ違いが起きる場所はどこだろう。ただ体験している部分は、私の一部なのに、私はその自分の生息地を知らなかった。もう一人の自分を知らなかった。体験の中に神がいる。神(と神の感覚)はクローズアップされやすいが、どこに生息しているかはそれに比べると目立たない。ここが盲点だった気がする。
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