微小な批判


まるごと、受け止めるとか、体験する場合の「まるごと」というのはかなり難しい。
本当に小さなササクレのようなものですら、気になるものだ。


精神的な道を努力している人も同じで、意識的には気づきにくい微小な批判とその同一視は難敵になる。


全体に対する定義というのはない。部分に対してだけ理性は定義する。それはすべて近似に過ぎず、実体とはどんなに小さくてもズレがある。地図と土地は永遠に交差しない。


こねくり回せる対象は、空想でしかない。分離された部分などないから、それは空想でしかない。この空想に囚われることで、「まるごと」「全体」はみえなくなる。意識から消える。


逆にまるごと全体に留まるとき、理性は活動を潜める。
思考と文字は消える。感じている中心に留まる以上、息を殺して周囲の気配を伺うように、ただのセンサーになる。そのセンサーにとって、自分の内部と外部という区別はなく、自他は消える。


この自他が消えることを妨害する条件が、ほんのわずかな、無意識的な批判だ。自分(エゴ)すら気づいていないから、その存在に気づきにくい。


まるごと。全体。それはつまり、100%、この「今」でOKだ。と言うことだ。
今後どうなるかとか、今までどうだったとか、それすら考えていない。いまがすべての時を飲み込んでしまう。
このOKを出すことが、無意識的に妨害され続けている。


比較対象があるなら妨害されるし、未来への希望も妨害になる。
思考活動自体が妨害だし、「健全」という概念も妨害になる。


頭のなかに討論番組があり、決して信頼に値しないコメンテーターがその場かぎりの衝動を主張している。彼らに反論した時点で敗北だ。


彼らはエゴの側面であり、分裂、残留した思念や感情のようなもの。鏡の部屋に取り残された自分の分身たちなのだと思う。


彼らは、なにかを、いま、許していない。


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