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悟りの定義


1000人いれば1000通りの定義ができる。誰かの定義が誰かに必要ということもなく、遺伝子のようにその人独自の顕れになり、価値は変わらない。その独自の顕れが他の人の人生にもシブい脇役みたいな彩りを贈る結果になるのだと思う。


それになにより、理性より大きな存在というのは、定義できないじゃないか。


定義じゃなくて、体験している現在進行形だけが価値をもっている。地図と土地という比喩が私は好きだけれども、地図読みの作業や、いい地図を持っていることに「こだわってしまう」と土地がすぽーんと抜け落ちる。こういう話をしている人が口喧嘩する場合、地図の訂正合戦になる。違う!そこにあるのはそれじゃない!とか。


正確な地図を書き上げてから出発しようなどと、先延ばしになる。


20年、地図は読んだ。が、ファウストの言うように、この阿呆は昔の阿呆のままだ!という自己否定になる。阿呆でもいい。阿呆なら阿呆で、リラックスそのものでありたい。じじじと何かが焦がれるように、この瞬間を愛せないなら、阿呆=自分。自分=許せん。という責め言葉が頭を陣取っている。陣取っていて悪いのか、というと、別に悪くない。単に今一時的にそういう顕れだというだけで、愛は変わらない。本当になにも変わらない。実感できないだけで、どんな「ひどい」人生を歩んでいる人もこの上なくとしか言いようがないほどに愛されている。そのままの姿、そのままのキャラクターで、愛に満ちている。それが信じられないのは本人なのだ。


未来への不安から、現在あるパワーを無視するとしたら、その人の人生はその不安を反映し始め、やがてそれしか見えなくなる。不安を埋めようとして対処療法に走れば、すべて的外れになる。


実在は、「ある」のであって、「起こす」ものではない。起こるものではなくて、それらを不動に受け取め、体験するものだ。止観の中心。それがセンターだ。


指向性しか知らないエゴにとって、このセンターに留まることは地雷原に留まるより難しいことが多い。成果を素通りできるのか?何も求めず、生きていけるのか?結果に(本当に)執着せずにいられるだろうか?


自分を責めずにいられるか?自分や他人の欠乏と欲求をそのままに受け入れられるか?人間らしくただの人間でいられるか?これ以上人生は良くはならないことを本当の意味で認められるか?


自分を含む、誰かを許さないことによって、私たちは分離(感)にしがみついている。しがみついているから、なんで執着が離れていかないのか疑問に思っても仕方がない。手放していないのは、本人の手だ。しがみついているかどうかは自覚するしかない。


私たちは、予想に反して自分で自分を修理できない。故障箇所に気づけるだけだ。発見と共に、修理はなぜか自動的に何者かの手によって行われる。修理ではなく、発見することがすべてだ。



何もしないということは、何もしないように「する」ことでは達成できない。
「する」ことをやめてほしいと言われたとき、心(マインド)が自然に静まるまでの間、騒ぎまくる子供を冷静にじっと見つめて、落ち着くのを待つのが一番早い気がしている。
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