思考観察の失敗


たとえば、思考観察を試みた人が土日の48時間に集中して、「頭の中」を見張り、何も思考が出てこない意識の立ち位置を見つけるとする。これは集中すれば誰でもできる、はず。


思考が猛烈に湧き出てくるような抵抗を乗り越えて、まったく思考が発生しない静寂と自覚がひとつになった場所が見つかる。静寂のなかに妙なくつろぎや開放感を見出す。人生の質が一変したように感じる瞬間がくる。何かを「する」から「ただある」にシフトできる(気がする)。


これを往路とすると、復路がある。
日常の「なにか」に触れるたびに、いままでの人生でパターン化した思考が「陰に潜み、囁きはじめる」


集中的に思考観察を実行している時は、エゴはリングに上がっても勝負が不利だとみて、隠れて、負けたフリをしている。



「やられた~もうダメだ~あんたの勝ちだ~」
とかよく言ったりする。


ところが、日常に戻るその瞬間を利用して、最もになっている批判のパターンや、自己否定などの感情をとりながら、本人になりすます。


潜む思考の分量は徐々に毒を盛るように、少しずつ上げていく。
無思考が「センター」だとすると、思考にとりつかれた状態は「前のめり」だ。


姿勢が徐々に前のめりになっていく。
解除したはずの自己像と自己同一視がもう一度進んでいく。


舌打ちをするようになり、過去の残像や、シーンに苛立つようになる。
このとき、この言葉に支配される。この前提が意識に刷り込まれる。


「わたしは、なにかを、やらなければ(変えなければ)ならない」


つづく
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