リンゴ「から」の努力は無駄?
リンゴから→
行為する、努力する、観察する
これらは全部無駄ではないか。
つまり人間として、一人の個人として、思考を観察しようとしても、エゴが潜伏してしまい、ある時点を境にゆり戻しがくる。
神秘体験の秘密は、視点の転換にある。
個人の視点が→世界観(空間そのもの)の視点に転換する。
部屋「から」観ないと全部ダメということ。
部屋(虚空)は気づかれているものと同一だから、「今この瞬間のあらゆるエネルギーの動き」そのものであるが、個人がこの「今この瞬間のあらゆるエネルギーの動き」をもっと丁寧に体験「しよう」とすると、エゴの「リンゴしか存在しない」という観念(または自己否定のパターン)にいつのまにか騙され、また肉体=私の感覚に逆戻りしてしまう。
個人は、その空間の「目」の存在を知らない。空間が生きていることを知らない。
肉体の感覚は「(真我に照らされて)浮かび上がってきている」感覚であることを知らず、独立した感覚器官のデータだと思い込んでいる。物心ついた時から取り違えている。
だから「飛躍」が必要になると思う。
正体不明の「空間」に意識の焦点をあわせるのはとても難しい。
どこにもX軸Y軸などの座標はないから。色も形も、何もない。
個人は、「それ」を知らない。エゴは「それ」を知らない。
「それ」が「個人」を浮かび上がらせている。
もう少し細かく書く。
雷鳴が突然轟いたとして、その雷鳴にびっくりする。
気づいている意識は雷鳴をリアルタイムで気づいているほうで、びっくりした方は日常のマインドなのだ。(気づいている意識は、びっくりしているマインドに、びっくりしないでリアルタイムで気づいている)
意識の焦点を「部屋」にあわせようとしている求道者が、マインドにとどまっていたか、気づいている意識にとどまっていたか、このズレに、びっくりした時点で気づけるということ。
だがそれだけではない。個人が知る「能力」では、虚空の発見はできない。
虚空は虚空にしか発見できないのだ。
虚空に「発見させる」のだ。
もう少し色々書きたかったけど、続きはまた明日。一日前倒ししてます、カレンダーわかりにくくてごめんなさい。
つづく
HN:
Fiora & nobody