神秘体験


こんばんは。今日は私という個の場合の主観的な神秘体験を書いておきます。
私の場合、「大いなる光(透明な光)」に回帰した後に「虚空」に邂逅しています。
その際に親玉・皇(でっかい光の球体)の周辺を光の子(人間の本当の姿・純粋な目覚めた意識・あり方そのものの愛)らが飛び回るところを目撃していて(地球を丸ごと覆う光の網、織物のように感じました)、その時点でワンネスはもちろん感じていて、自我は完全消滅(わたしはいないことを自覚してオーケストラに転換している意識状態)しており、無限の愛・無限の歓喜・無限の自由を感じている状態から、


宇宙そのもの、存在するすべてを消滅させ、それでも残ったものが、
「なにかに気づいている」ことに「気づいている」という感覚の「虚空」でした。
(その際に感じたのは、禅の修行者が「うつむき加減に」瞑想するのは、この虚空を見つけた先達の体験的感覚からの指導だなと思いました)
あらゆる超越と侵食をしていること(つまり潜在的にあらゆる次元に潜む絶対静止のフィールド)、フィールドは無限そのもの、「真の無限」をそこで発見しました。真の無限と言う意図は、それ以外の無限をいくら生み出そうと、これだけは超えられないからです。
「神の最も外側」それが私が今「虚空」と呼んでいる空間・真我を指しているつもりでした。


その「虚空」が何を感じているかというと、皇の感じていた「無限の愛・無限の歓喜・無限の自由」を「含む」「それ以上の『どこか落ち着いた』至福」でした。


その至福は確認したのですが(それを確認するために宇宙を吹っ飛ばしています)、「永遠に消えない」至福でした。存在物の動向や消滅、「有る」と「無い」を超越する至福です。あらゆるものを超越しますので「絶対の」「ある」です。また恥ずかしい単語書きますけれど小学生の私は無有越(むゆうえつ)と呼んでいました。
つまり虚空は、別に皇や私たち人間を生まなくても「永遠に至福」なんです。原初から未来永劫そうです。異なる宇宙を100万回生み出そうが変わらないと感じました。
(フィオラは別意見なんです。究極のリアリティとは無限の自由のみであり、nobodyが一緒くたにしている無限の愛・無限の歓喜は実在するが、それらは瞬間の動きから生まれると主張しています。愛の位置づけに関しては私は人間の本質が愛であることまでは確認しましたし、皇が無上の愛の親玉であることも感覚として確認はしていますので、ただの無限のエネルギーではないのはわかるのですが、虚空とどう絡むのかは体験できていません)


私にとって消えている「疑念」は、


神が用意している幸福というのは、あらゆる人間の疑問や苦しみを完全消滅させる力があることです。あらゆるという言葉に誇張はありません。


神はすべての人間に信じられないプレゼントを用意して待っています。


そしてこれを誰も信じる必要はどこにもありません。もともと全員虚空であり、もともと行くべき場所などないからです。全員虚空なのですから、全員が自由の権化です。


私たちのやっていることは、この二極性でのあり方を学ぶ星・地球において、虚空に後づけすることで妙な価値観をもってしまって、ありのままのエネルギーを浪費・消耗しているから、その中で不要な荷物を取り除き、真実に還っていく自己作業です。自己作業ですから、兄弟姉妹の作業状況は関係ありません。


覚醒とは軽くなったのかどうかを意味します。大きなターニングポイントは確かにありますが、それはこの時代なら誰でも耳タコの話です。いまここということです。なぜいまここにいられないのかという見えないトラップを回避するための技術が思考観察や、その他の方法論です。


ただ、愛という人間の本質を外してしまうと、おそらく転生してしまうので、(死後にフィードバックを行うのはエンマ大王ではなくて、個々人の胸の中心に位置する皇らしいです、フィオラさんが言うには)人間にとって最重要なことは、愛の呼びかけには(その人なりのベストでいいから)必ず応えるということです。これが覚醒にも直結しています。私が極めて怖ろしいと思っている点は、愛の呼びかけは「愛ある想念」か「愛のない想念」か、想念すら一瞬単位で適用されるということです。これは損得計算でのわざとらしい動きはカウントされません。自分のための言い訳すら通じません。皇だけは誰も騙せないです。みんな学びの最中です。


特定の宗教は信じていませんし、私にあるのは以上の体験と理解のみです。
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Fiora & nobody