日付を前倒ししていたので、今日は過去記事の空白部分に埋めました。
でもミスしましたので、読む価値があるかは微妙です。このテーマは明日やり直します。

愛のかたち



もうある、か。まだない、か。エゴはまだないと強烈に信じている。


ドラえもんが浮いているという話は有名だ。足の裏が少し浮いているらしい。
もしもその浮遊能力が修行によって得られるとしたら、どのくらいの人が修行するだろう。


ドラえもんは浮遊教を立ち上げて、教祖になるとする。多くのドラ焼きが献上される。

浮遊教に入信した修行者のエゴはこう考える。


足の裏がちょっと浮くなんて!
私にそんな力は「いまは」「絶対に」「ない」!!
だから獲得しなくては!!!


もしも。本当に浮遊能力が身についた人が出てきたら、きっとワイドショーを席巻するだろう。


浮遊能力、なら世間を騒がせるに足る。
では、覚醒は同じものか?


全然違う。覚醒は、今日生まれてきた赤ん坊も同じものを持っている。
努力などしなくても、最初からみんなにあり、みんなから、失われない。


ところがエゴはそうは思わない。
浮遊能力ほどエキセントリックではないかもしれないが、何か素敵な力に違いない。
私にそんな力は「いまは」「絶対に」「ない」!!
と考えている。


まだない!と考えている。
もうある。とはまず認めようとしない。


エゴはとっても頑固だから、逆から考えてみる。もうある、なら、それはどんな性質のものだろうか。


それはどんな人にも「いま」ある。もうある。
だから目の前のものはみんな千差万別なので、目の前のものとは関係がない。
知識とも関係がない。肉体とも関係がない。思考とも関係がない。感情とも関係がない。
赤ん坊にあるのだから、学校に行ったかどうかも関係ない。裸でもあるのだから、衣服は関係ない。栄養状態も関係ないし、財布の小銭も関係ない。


みんなに共通する、もうあるものなんてあるだろうか。


ある。


そして「まだない」という思いこみが消えている人のことを「修行者」は「覚醒者」と呼ぶ。
まだないという思いこみが続いているのが修行者だ。



つまり覚醒ゲームは客観的に見れば「なぞなぞ」に近いのだ。
だがなぞなぞと違うところがある。
なぞなぞの場合、なぞなぞの答えを「持っていない人」がいるが、覚醒を「持っていない人」は誰もいない。


私たちはばかばかしいことをやっているのだろうか。
「まだないという一つの思考」が絶望を生み出しているのだろうか。
ただ、今この瞬間を愛したいだけなのに。


つづく
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