主語


思考を捕らえようとする必要はない。思考はあくまで本人に「なりすましている」。
思考が本人なのか、意識が本人なのか、その違いはあるのか、自分で検証していく。


まず、思考と意識は別物なのか。同じものなのか。
思考は意識を観念的にしか捕らえられず、意識は思考を現行犯(逮捕ではなく観察)できる。


(意識が)思考に捕らわれているとき、意識はどこにいるのか。何をしているのか。
意識は無自覚となり、無意識になる。この状態では過去の経験パターンから雛形を搾り出し、反応する行為者が生まれる。


意識が思考を意識するとき、思考はどこにいるのか。何をしているのか。
主に頭蓋骨のなかに動く思考の通過を観察できる。が、距離を保つのが難しく、思考の内容によっては自覚が消える。


意識が意識を意識するとき、思考はどこにいるのか。何をしているのか。
思考は「動機」を失い、発生しなくなる。
意識は「対象」を求めようとせず、意識が意識を「自覚」している完結型の意識状態になる。


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ここ。
それはどういう意識状態だろう?パソコンやスマホの画面を見ていることを自覚している意識状態だろうか?
Y氏の言葉をお借りすると
1、画面に気づいている意識にまず気づく。
(それは画面を見ているのは誰かと誰の部分に意識の焦点をあわせることでしょう?)
2、その気づいている意識から画面を見続ける。
(これは気づいている意識そのものの「自覚を保ったまま」そこから行為するということかな?)


これだけ?
マハラジの「私はある」という感覚に意識の焦点をあわせた三年間みたいなことを言っているのだろうか。



思考に捕らわれているとき、意識は見失われる。本人が本人を見失っている。
このとき、無意識の前提が刷り込まれる。
肉体=私
自覚が消え、行為者になる。
この行為者は小さく弱い。
肉体の限界を意識していて、さらに肉体を自己と同一視しているから怖れることが多い。


そのため行為者の思考はどうしても防衛的になる。
防衛(または外部環境の操作)が成功したと思うと有頂天になり、失敗したと思うと落胆する。


この行為者の思考には「出口」がない。
迷路のように入り組んでいて、堂々巡りになる。
限界のある小さな存在「自己」を防衛することに必死になるが、そもそも限界があるからこそ、どのような完璧に思える方法をとっても最終的には防衛に失敗する。どこにも出口はない。出口がないことに薄々自分で感づいているから、苛立っている。不安でいる。


行為者が行為者として、思考から満足を得るための方法は一つしかない。
「防衛と操作が成功している」または「(努力すれば)未来に成功する可能性がある」となんとか思い込み続けることだ。


そのためにエゴは努力し、奮闘する。
エゴは限界を自覚しているが、無意識にそれを思い出さないように顔を背ける。
限界を見たくないというより、その周辺の怖れを見たくないと感じている。
対処できないと感じているからだ。



これらの怖れは内容が問題なのではなく、「主語」が問題となる。
誰が対処できないのか。その主語は本物か。検証したか。
無自覚に、肉体=私という前提を信じ、その肉体の防衛に成功するか否かのゲームにする場合、ゲームのどの局面からもバッドエンドの匂いしかしない。
肉体が主語なら、死なない肉体も、限界がない肉体もないことはみんなわかっている。


生きた軌跡を残したい。なんらかの記念碑を建てたい。
これらの願望もエゴが死への怖れをすり替えている結果かも知れない。


人生をどう捉えるか。どういう世界観で生きるかは個人の自由だけれども、それらの動機の主語を自分で検証しないままに今後も無意識、無自覚で走り続けるかどうかは別の話ではないでしょうかというのがスピリチュアルの主張のようだ。


つづく
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