主語


思考を捕らえようとする必要はない。思考はあくまで本人に「なりすましている」。
思考が本人なのか、意識が本人なのか、その違いはあるのか、自分で検証していく。


まず、思考と意識は別物なのか。同じものなのか。
思考は意識を観念的にしか捕らえられず、意識は思考を現行犯(逮捕ではなく観察)できる。


(意識が)思考に捕らわれているとき、意識はどこにいるのか。何をしているのか。
意識は無自覚となり、無意識になる。この状態では過去の経験パターンから雛形を搾り出し、反応する行為者が生まれる。


意識が思考を意識するとき、思考はどこにいるのか。何をしているのか。
主に頭蓋骨のなかに動く思考の通過を観察できる。が、距離を保つのが難しく、思考の内容によっては自覚が消える。


意識が意識を意識するとき、思考はどこにいるのか。何をしているのか。
思考は「動機」を失い、発生しなくなる。
意識は「対象」を求めようとせず、意識が意識を「自覚」している完結型の意識状態になる。


  ↑↑↑


ここ。
それはどういう意識状態だろう?パソコンやスマホの画面を見ていることを自覚している意識状態だろうか?
Y氏の言葉をお借りすると
1、画面に気づいている意識にまず気づく。
(それは画面を見ているのは誰かと誰の部分に意識の焦点をあわせることでしょう?)
2、その気づいている意識から画面を見続ける。
(これは気づいている意識そのものの「自覚を保ったまま」そこから行為するということかな?)


これだけ?
マハラジの「私はある」という感覚に意識の焦点をあわせた三年間みたいなことを言っているのだろうか。



思考に捕らわれているとき、意識は見失われる。本人が本人を見失っている。
このとき、無意識の前提が刷り込まれる。
肉体=私
自覚が消え、行為者になる。
この行為者は小さく弱い。
肉体の限界を意識していて、さらに肉体を自己と同一視しているから怖れることが多い。


そのため行為者の思考はどうしても防衛的になる。
防衛(または外部環境の操作)が成功したと思うと有頂天になり、失敗したと思うと落胆する。


この行為者の思考には「出口」がない。
迷路のように入り組んでいて、堂々巡りになる。
限界のある小さな存在「自己」を防衛することに必死になるが、そもそも限界があるからこそ、どのような完璧に思える方法をとっても最終的には防衛に失敗する。どこにも出口はない。出口がないことに薄々自分で感づいているから、苛立っている。不安でいる。


行為者が行為者として、思考から満足を得るための方法は一つしかない。
「防衛と操作が成功している」または「(努力すれば)未来に成功する可能性がある」となんとか思い込み続けることだ。


そのためにエゴは努力し、奮闘する。
エゴは限界を自覚しているが、無意識にそれを思い出さないように顔を背ける。
限界を見たくないというより、その周辺の怖れを見たくないと感じている。
対処できないと感じているからだ。



これらの怖れは内容が問題なのではなく、「主語」が問題となる。
誰が対処できないのか。その主語は本物か。検証したか。
無自覚に、肉体=私という前提を信じ、その肉体の防衛に成功するか否かのゲームにする場合、ゲームのどの局面からもバッドエンドの匂いしかしない。
肉体が主語なら、死なない肉体も、限界がない肉体もないことはみんなわかっている。


生きた軌跡を残したい。なんらかの記念碑を建てたい。
これらの願望もエゴが死への怖れをすり替えている結果かも知れない。


人生をどう捉えるか。どういう世界観で生きるかは個人の自由だけれども、それらの動機の主語を自分で検証しないままに今後も無意識、無自覚で走り続けるかどうかは別の話ではないでしょうかというのがスピリチュアルの主張のようだ。


つづく
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思考の観察について
私が理解しているプロセスを書いてみます。(^^)

1)思考を観察する
2)観察された思考は消える
3)思考が消えると無思考(ノーマインド)の状態になる
4)思考が消えてノーマインドになっても、それ(ノーマインド)に気付いている意識がある
5)…が、しかし、その気付いている意識の事は放っておいて、ただただ無思考を自覚する(ここが、他者に言葉で正確に伝達するのが難しい部分です)
6)頭の中の思考をちゃんと見張っていれば、思考が出てくることはないが(つまり、無思考が続くが)…
7)油断していて思考が出てきたら、出てきた事に気付き、思考を観察する
8)このルーチンを習慣化していると、思考から離れ、意識がシフトしていく
9)そして、次のステージに進む…

5)は、気付いている意識は必要(そもそも、それが無ければ、何かと同一化しているという事なので)なのですが。
でも、そこに気を取られていると、思考や自我が、気付いている意識に成りすます可能性があります。
ですので、『気づいている意識そのものの「自覚を保ったまま」』という説明は正しいのですが、その前提に『「常に思考に気付き」「常に無思考に気付く」』が必須になります。

…と言うことで、たぶん、nobodyさんと同じですよね?(^^;)
光龍 2013/12/03(Tue)18:56:56 編集
Re:思考の観察について
光龍さんの説明の仕方はすばらしいです!
最初に言うと同じじゃないです。私のやり方は甘い甘い甘ちゃんのやり方です。
ちょっと、本文の記事の方でご意見を巻き込ませていただきますね^^
私は無思考に気づき続けること(意識的な明確な基準)を曖昧にしたまま、「松果体に意識の焦点が接触していればそれでいいのさたぶん^^;」と初期に自分を甘やかしてきました。


ぜひこのまま光龍さんの経験をビシバシ教えてくださいm(__)m続きは本文で。←と思ったのですが、今日そこまで書けませんでした。普通に返信します。こうしてまとめていただけるとかなり新鮮で参考になります。


>私が理解しているプロセスを書いてみます。(^^)
>
>1)思考を観察する
>2)観察された思考は消える
>3)思考が消えると無思考(ノーマインド)の状態になる


思考の通過を観察して、頭がからっぽになった状態ですね。


>4)思考が消えてノーマインドになっても、それ(ノーマインド)に気付いている意識がある


通過を観察できる意識自体が、ノーマインドにも気づいてますよね。


>5)…が、しかし、その気付いている意識の事は放っておいて、ただただ無思考を自覚する(ここが、他者に言葉で正確に伝達するのが難しい部分です)


ここは確かに微妙なニュアンスのところですね。私は「自覚を保つ」ということの中に、頭蓋骨のなかを見張ることができていると含めていました。


>6)頭の中の思考をちゃんと見張っていれば、思考が出てくることはないが(つまり、無思考が続くが)…
>7)油断していて思考が出てきたら、出てきた事に気付き、思考を観察する


最初は続かないことが多いですよね。とくに、油断は必須です。人は油断しないと生きていけません^^光龍さんにご紹介いただいたマハラジの「思考を潜ませることへの厳格な拒絶」の「厳格な」という部分、「観察する」という「行為」ではないんですよね。
真我はいつも厳格に「気づいている」んだけれども、マインドが「よそ見」をしている。そのよそ見と注意散漫を拒絶するんですね。私は自分に甘いのでこれ苦手です(笑)


>8)このルーチンを習慣化していると、思考から離れ、意識がシフトしていく
>9)そして、次のステージに進む…


阿部敏郎さんがおっしゃっていたんですが、悟りは「シール」みたいなものだと。
当初はぴったり(マインドが)貼りついている。一度意識が大いなる意識に邂逅すると、「シール」は剥がれる、「が」またくっつく。ただ今度は剥がれやすくなっている。粘着力が弱くなっている、と。卓見だと思いました。


>5)は、気付いている意識は必要(そもそも、それが無ければ、何かと同一化しているという事なので)なのですが。


おっしゃるとおりです。ここ重要な部分なので書かせてください。
気づいている意識自体は全員にあります。努力もいりません。ですが、気づいている意識に焦点を「あわせようとしているか」「部屋から観ようとしているか」は「マインドの奮闘や努力」とは大きく姿勢が異なります。マインドはマインドからしか物事を見れません。計れません。彼(エゴ)の努力は残念ながら妨害にしかなりません。


>でも、そこに気を取られていると、思考や自我が、気付いている意識に成りすます可能性があります。
>ですので、『気づいている意識そのものの「自覚を保ったまま」』という説明は正しいのですが、その前提に『「常に思考に気付き」「常に無思考に気付く」』が必須になります。
>…と言うことで、たぶん、nobodyさんと同じですよね?(^^;)


私はここが自分に甘かったので、「エゴのなりすまし」はかなり多くありました。
なりすまされていることに「気づかない」んです。Y氏がおっしゃっていたように、意識性が低下している瞬間があって、そこに「乗っ取り」が行われますし、それは今でも頻繁にあるんです。


今感じているのはですね、「エゴってすごい…しぶとすぎる」という感覚です。彼は決して死なない。そして巧妙という意味では、エゴ以上の策略家は史上にも存在しないのではないかというぐらい、本人を騙す詐欺はうまいんですよね^^
光龍さんのおっしゃる「無思考に気づきつづけること必須」おっしゃるとおりです。
【2013/12/03 23:43】
私は在るという感覚を見守るについて
ニサルガダッタ・マハラジは、師から何をどの様に伝達されたのかを、全て明かしていないみたいなので、単純に比較はできませんが。(^^;)
残された文言を検討してみると、気付いている意識を自覚する所は同じですが、そこから先が若干異なる様に思えます。
何故かと言うと、ニサルガダッタ・マハラジの師は『「私は在る」という感覚を見守り、あなたの真我を見い出しなさい』という意味の事を言っているからなんです。

実際にやってみて、ただ単に感覚を見守っているだけでは、いつまで経っても真我は見い出せないと、私は感じました。
真我を見い出すには、感覚を見守りながら、ニサルガダッタ・マハラジ本人が言った…
『あなたに知覚できるものはあなたではない、知覚するという行為そのものが、あなたの知覚するものが、あなたではないことを示している』
を実践しなければ、何も動かないと、試していた時期に感じたんです。

まぁ、でも、ここの所は、ニサルガダッタ・マハラジ本人に訊かない限り、確かな事は何も解かりませんね。(^^;)
それに、私はニサルガダッタ・マハラジの様に、三年間も「私は在る」という感覚を見守ってもいませんし。(^^;;;)
何年間か続けていたら、真我が見い出せたのかなぁ?

…って言うか、試してみた身としては、本当の所を知りたい。(笑)
光龍 2013/12/03(Tue)18:57:45 編集
Re:私は在るという感覚を見守るについて
これも非常に勉強になります。
光龍さん、私はマハラジという人は「潜在的可能性」「あらゆる否定形でしか表現できない」という言葉を使うあたりからみて、「虚空」にかなり深く定住していた人だと思うんですね。ラマナとどこがどう違うのかはわからないけれど、まさに「達人」です。


>ニサルガダッタ・マハラジは、師から何をどの様に伝達されたのかを、全て明かしていないみたいなので、単純に比較はできませんが。(^^;)
>残された文言を検討してみると、気付いている意識を自覚する所は同じですが、そこから先が若干異なる様に思えます。
>何故かと言うと、ニサルガダッタ・マハラジの師は『「私は在る」という感覚を見守り、あなたの真我を見い出しなさい』という意味の事を言っているからなんです。


「私は在る」こそ虚空が虚空を「自覚」している側面だと思うんです。
それは、何にも拠らず、まさにででーんとあります。「在る」以外を、だから人間も経験できません。でも人間は「在る」感覚よりも、「マインドのブレ」のほうが身近(そういう悪癖がついてしまって)で、いつも卑小さを感じています。


>実際にやってみて、ただ単に感覚を見守っているだけでは、いつまで経っても真我は見い出せないと、私は感じました。
>真我を見い出すには、感覚を見守りながら、ニサルガダッタ・マハラジ本人が言った…
>『あなたに知覚できるものはあなたではない、知覚するという行為そのものが、あなたの知覚するものが、あなたではないことを示している』
>を実践しなければ、何も動かないと、試していた時期に感じたんです。


本当に参考になります。もしよかったら6月14日の記事、バーソロミューが「大いなる光の波に意識を集中する」とき、「自分は《いま光に意識を集中している純粋な目覚めた意識である》ということをどうか感じていてください」という部分をご覧になってください。
この「光」なんですが、バーソロミューは「完全なる愛と叡智の覚醒意識」のことを「大いなる光」と呼んでいます。これは実際に神秘体験時にも事実「光」として見えるんです。


重要なことは、光をみようとするときに、「純粋な目覚めた意識であると感じている」とは何を意味するかです。これ私「空間からしか光はみえない」という体験的感覚として感じています。だからマインドからのみようとする努力はうまくいかず、「在る」または、「空間視点(純粋な目覚めた意識であると感じている)」に転換することを飛躍(ジャンプ)するような飛躍的発想がいるのではないかと思うんです。


>まぁ、でも、ここの所は、ニサルガダッタ・マハラジ本人に訊かない限り、確かな事は何も解かりませんね。(^^;)
>それに、私はニサルガダッタ・マハラジの様に、三年間も「私は在る」という感覚を見守ってもいませんし。(^^;;;)
>何年間か続けていたら、真我が見い出せたのかなぁ?
>…って言うか、試してみた身としては、本当の所を知りたい。(笑)


私も知りたいです^^虚空は時間を超越している存在ですから、マハラジの三年も実はあんまりアテにはならないんですよね^^偉大な精神的指導者は集中力が違ったのではないかと、いつも思っちゃいます。また教えてください^^
【2013/12/04 00:12】
Re^2:私は在るという感覚を見守るについて
幾つかの話題が含まれていますので、内容を二つに分けて返信します。

【6月14日の記事の件】
バーソロミューの「大いなる光」なんですが。
うーん、私的には、自我の領域から出てはいない、と感じます。(^^;)
ただ、一口に自我とは言っても、底辺のエゴ意識から上の方の高次の意識まで、包括している範囲は広く…
もちろん、バーソロミューの示している所は、高次の意識なのですが…
ニサルガダッタ・マハラジや、他のアドバイタ系の覚者の言う真我や、nobodyさんの言う虚空とは、違うと思います。

真我や虚空は、部屋で言えば空間であり、映画で言えばスクリーンであり、花火で言えば闇夜であり、音楽で言えば沈黙です。
そこには、目に見える…感覚として感じる様な動きは、全くありません。
相対の世界ではなく、絶対の世界です。

ですので、バーソロミューの伝えている事は、絶対の世界から現れて来た相対での原初の動き(揺らぎ)を、
なるべく高次の段階で感じ、受け取らせようとする試みであると思われます。
簡単に言うと、覚者は絶対の救済、バーソロミューは相対の救済。なのだと思います。

【私は在るについて】
ニサルガダッタ・マハラジの師が、マハラジに語ったとされる一文を、逆から読んでみますと。
『真我を見い出すには、「私は在る」という感覚を見守り、あなたがなにであるのかを見い出し、自分自身だと見なしているものではない事をしりなさい』
となると思います。

こうしてみると、師は、とてもシンプルかつダイレクトに、「私は在る」という感覚を入口にして、真我実現を誘導したものと思われます。
なにしろ、「私は在る」という感覚ほど、究極に近いものはないですものね。(^^;)

つまり、「私は在る」という感覚は、知覚できますから、わたしではありません。
見守れて(観察できて)しまうのですから、それはわたしじゃありません。(^^;)

感覚は、家具、物、映像、花火、光、音楽、音です。
その存在が存在する事を許している存在(本当は、もはや存在とも呼べませんが)…それが真我であり、虚空です。
空間であり、スクリーンであり、闇夜であり、沈黙であり、静寂です。(^^)

何度か、深ーく沈黙に入った事がありましたが、認識や知覚が全く失われているので、当然時間の感覚も無く。
相対の世界に戻って来た時に初めて、絶対の世界に入っていた事に気付きます。
(肉体が呼んでいたので、割と早めに帰ってこられました…爆)

相対の世界に肉体だけを残して向こうへ行っても、何も楽しくありません。(^^;)
なにしろ、何も感じていないのですから。
あっちの世界に全身全霊で行っちゃったら、たぶんこの世では生きていかれないでしょうね。(笑)

なので、サット、チット、アーナンダ(存在、意識、至福)を感じたいのであれば、『「私は在る」という感覚を見守る』くらいの距離感が最適だと思います。(^^;)
光龍 2013/12/04(Wed)09:34:30 編集
Re:Re^2:私は在るという感覚を見守るについて
光龍さん、こんばんは^^
細かくお答えいただいて、ありがとうございます。


>幾つかの話題が含まれていますので、内容を二つに分けて返信します。
>
>【6月14日の記事の件】
>バーソロミューの「大いなる光」なんですが。
>うーん、私的には、自我の領域から出てはいない、と感じます。(^^;)
>ただ、一口に自我とは言っても、底辺のエゴ意識から上の方の高次の意識まで、包括している範囲は広く…
>もちろん、バーソロミューの示している所は、高次の意識なのですが…
>ニサルガダッタ・マハラジや、他のアドバイタ系の覚者の言う真我や、nobodyさんの言う虚空とは、違うと思います。
>
>真我や虚空は、部屋で言えば空間であり、映画で言えばスクリーンであり、花火で言えば闇夜であり、音楽で言えば沈黙です。
>そこには、目に見える…感覚として感じる様な動きは、全くありません。
>相対の世界ではなく、絶対の世界です。
>
>ですので、バーソロミューの伝えている事は、絶対の世界から現れて来た相対での原初の動き(揺らぎ)を、
>なるべく高次の段階で感じ、受け取らせようとする試みであると思われます。
>簡単に言うと、覚者は絶対の救済、バーソロミューは相対の救済。なのだと思います。


理性的にとらえると確かにそのように見えるかもしれないと思うんです。光龍さんの分析は鋭いですし、私は成長過程でバーソロミューに重きを置きすぎて贔屓していますので若干バイアスがかかっているかもしれないんです^^
お伝えしたかったのは、「相対の本当の姿は、絶対からしか見えない」(ような気がする)という私の体験的な感覚なんです。大いなる光は実在します。そしてそれは、相対の救済などという次元のものではなくて、「あらゆる人間の」「すべての苦しみや渇望が」「一瞬で溶けて消えてしまう」ぐらいの威力を持っていると感じています。誰の中にもその光が気づかれるのをいつも待っています。これを発見するためには、「視点が個人視点から空間視点に転換しなければならない」ような気がしているんです。マハラジのお師匠様が、自分ではないものを見極めると言った時に、自分ではないものを「どこから」なら見極めることができると言っていたのか、私はなんとなく気になりました。


おそらく、光龍さんと私の「絶対」の世界に関する体験的な感覚の違いがあるんだと思うんです。
光龍さんが絶対に触れたときに何も動きを感じられなかったというのは、絶対静止(最高の境地)に触れられているのだと思います。私の場合は、その「絶対」は「無限の愛・歓喜・自由」を感じていました。動きがないのに、至福に満ちていたんです。絶対の世界がどうなっているのかは、「無」という側面を強烈に感じる方もいますし、私のように「至福」を感じる場合もあるみたいですし、まだまだよくわからないですね^^


>【私は在るについて】
>ニサルガダッタ・マハラジの師が、マハラジに語ったとされる一文を、逆から読んでみますと。
>『真我を見い出すには、「私は在る」という感覚を見守り、あなたがなにであるのかを見い出し、自分自身だと見なしているものではない事をしりなさい』
>となると思います。


何度読み返しても底知れない一文です。読んでいると理性はわけがわからなくなってきますね。


>こうしてみると、師は、とてもシンプルかつダイレクトに、「私は在る」という感覚を入口にして、真我実現を誘導したものと思われます。
>なにしろ、「私は在る」という感覚ほど、究極に近いものはないですものね。(^^;)


「私はない」とは誰も感じないわけですから、最も「曖昧」な誘導と修行者からは文句が出そうですけどね^^;


>つまり、「私は在る」という感覚は、知覚できますから、わたしではありません。
>見守れて(観察できて)しまうのですから、それはわたしじゃありません。(^^;)


うーん、ここは難しいですね。消去法的(純粋な論理的)にはそうなんですけれど、絶対の世界に「私は在る」という感覚がないかと言うと、まさにそれが「ある」ような気も私はするんですよね…言葉で語るのが追いつかない場所に言葉で踏み込んでいくと、だんだん難しくなってきますね^^最終的に「私は在る」という感覚が去らねばならないのは、「ひとつ」に至る過程での修行者のための過程上の道しるべかもしれないと思います。


>感覚は、家具、物、映像、花火、光、音楽、音です。
>その存在が存在する事を許している存在(本当は、もはや存在とも呼べませんが)…それが真我であり、虚空です。


まったく同感です。


>空間であり、スクリーンであり、闇夜であり、沈黙であり、静寂です。(^^)


おっしゃるとおりなんですが、「闇夜」に関してだけは「真っ暗」というより「透明」と表現する仏教が表現が適切だったのかなと思います。それは色がないですからね。


>何度か、深ーく沈黙に入った事がありましたが、認識や知覚が全く失われているので、当然時間の感覚も無く。
>相対の世界に戻って来た時に初めて、絶対の世界に入っていた事に気付きます。
>(肉体が呼んでいたので、割と早めに帰ってこられました…爆)


光龍さんは、瞑想すごそうですね。
ちょっとこの瞑想初心者のnobodyにも、ぜひ色々とご教示お願いします。た、タダで…(笑)


>相対の世界に肉体だけを残して向こうへ行っても、何も楽しくありません。(^^;)
>なにしろ、何も感じていないのですから。
>あっちの世界に全身全霊で行っちゃったら、たぶんこの世では生きていかれないでしょうね。(笑)


やっぱりここですね。絶対に触れるときに、「無」の側面を強くお感じになってるんですね。絶対静止はですね、結構、隠された謎に満ちているような気が私はします。
光龍さんほど深い瞑想をできたことが私は一度もないですから、神秘体験オンリーの経験になってしまって、正確なところはわからないのですが、何も楽しくないのが最終段階ではないように思います。いや、もうここの次元を言葉で語ろうとしちゃダメですね^^;


>なので、サット、チット、アーナンダ(存在、意識、至福)を感じたいのであれば、『「私は在る」という感覚を見守る』くらいの距離感が最適だと思います。(^^;)


今夜も本当に勉強させていただきました^^こういう話を本気でできるって、いいですね^^そういう相手は普通見つからないんですから。ありがとうございます^^
また記事の方でもぜひ教えてください^^
【2013/12/04 22:55】
Re^4:私は在るという感覚を見守るについて
>おそらく、光龍さんと私の「絶対」の世界に関する体験的な感覚の違いがあるんだと思うんです。

『無』は確かに、何も無いの無ではなくて、全てが詰まっている『無』です。(^^)
nobodyさんと私の理解には、大きな差はないですよねぇ…と、私は思うのですが。(^^;)

それから、どちら側から見るか?という問いがありましたが…
私の分析だと、『無』に触れていながら何かを感じられる時というのは、瞬間瞬間、物凄いスピードで、意識が絶対と相対を往復しています。(^^;)
それをしている最中は、もちろんそんな事を感じている余裕はありません。(笑)
こっちに帰って来てから、その時の記憶をじっくりと観察していて気が付きました。

私も、「『無』に触れていると感覚は失われているはずなのに、何故、感じた記憶(実感)が残っているのだろう?」と疑問に感じたんです。
で、辿り着いた結論が、それです。
これならば、絶対に触れていながら相対に戻って来られる理由も簡単です。
意識が電光石火の働きで往復しているのであれば、相対に意識が来た際に、そのままで居れば戻れる訳ですから。(^^)

それから、相対の世界は広く、物質の固まりのレベルから気体の様に遍満しているレベルまで様々なのだと感じます。
でも、何らかのカタチを以って存在している以上、そこは相対だと私は理解しています。
(念の為、絶対、相対と、言葉を使わなければならないので、そう名付けてはいますが…それにより優劣があるわけではありません。)


>「私はない」とは誰も感じないわけですから、最も「曖昧」な誘導と修行者からは文句が出そうですけどね^^;

そこです、大事な所は!(と、私は思います。 ^^;)
思考による理解ではなく、「ん?何かがおかしい!?」と気付ければ、意識のシフトは始まります。(笑)

キーワードは四つ。
『私』『在る』『感覚』『見守る』
これらの言葉を、とことん突き詰めて、煮詰めて、「言葉の意味」から「純粋な体感」へと変化させて。
それらを、今度は言葉を使わずに構築し直し、自分自身に当てはめて、純粋に見詰めてみます。
(これ、言葉で説明するのは、とんでもなく難しいですぅ~^^; たぶん、何言っているのか?訳わかんないですよね。。。)

それまでは、「私は在る」という感覚が究極だと感じていたのに…(でも実は、「私は在る」という感覚を純粋に感じられる所まで行かれたのは、大変な進歩なんですよね。)
正体不明の、存在を直に感じる事も出来ないのに…でも、そこに、確かに、何か在る。
それが、真我で、虚空です。(^^)

でも、それは決して掴む事も、認識する事も、直に感じる事も出来ません。
もし、それらが出来たとしたら、対象を新たに創り出しただけで、観察すれば消えてしまう幻です。(^^;)

この、「でも、そこに、確かに、何か在る」という感じ。
これこそが、『包丁は自分を斬る事は出来ない』とか『眼は自分を見る事が出来ない』というもの(比喩)の事だと思うのです。

で、これを何年間か続けていたら、真我実現しちゃうのかなぁ~?って思ったんですね。(^^;)
(でも今は、Yさんのワークショップでやった事の方が面白いし、急務の様に感じるので、ニサルガダッタ・マハラジさんの方はお休みしています。笑)
光龍 2013/12/05(Thu)11:26:33 編集
Re:Re^4:私は在るという感覚を見守るについて
光龍さん、こんばんは^^


> >おそらく、光龍さんと私の「絶対」の世界に関する体験的な感覚の違いがあるんだと思うんです。
>
>『無』は確かに、何も無いの無ではなくて、全てが詰まっている『無』です。(^^)
>nobodyさんと私の理解には、大きな差はないですよねぇ…と、私は思うのですが。(^^;)


光龍さんは虚空です。私もそうです。いまどんな苦境に立っている人も虚空です。その上で、主観的体験の「感覚」の違いがあるかというと、それは個性があるように当然あると思うんです。
全てが詰まっている「無」のことを指し示している場合、まったく同じものを指し示しています。指し示すものに何の違いもありません。それはすべてを包含するものですから。


ただこういう話を共通の定義のない言葉でやりとりすると、色々な誤解も生まれますね。
たとえば「光」という単語一つをとっても、ある人には物理的事象を指し示す単語ですが、ある宗教家にはそれは神を意味します。アドヴァイタの覚者にとって「光」という単語が何を意味するのかはわからないのですが、仏教では光は透明な光を意味し、気づきを意味し、虚空を意味します。それがマインドと邂逅するとき、実際に光として見えることが多いです。私の主観的体験でもそうでした。


何よりも私が驚いたのは、虚空を思い出して「感覚が失われていて、楽しくなかった」という側面があると教えていただいたことです。静止は静止なのですが、私の場合は「それ以上のものはないほど楽しかった」んです。これは感覚の違いですよね。瞑想と神秘体験という入り口の差はありますが指し示すものは一緒です。虚空は永遠の自由ですから光龍さんの体験はもちろん真実の側面でしょうし、虚空は何でもアリが特徴です。その楽しくないという感想が、何を意味しているのかわからなかったので、何もない「無」の側面に強く触れられたのかと思いましたが誤解だったようです。


>それから、どちら側から見るか?という問いがありましたが…
>私の分析だと、『無』に触れていながら何かを感じられる時というのは、瞬間瞬間、物凄いスピードで、意識が絶対と相対を往復しています。(^^;)
>それをしている最中は、もちろんそんな事を感じている余裕はありません。(笑)
>こっちに帰って来てから、その時の記憶をじっくりと観察していて気が付きました。


>私も、「『無』に触れていると感覚は失われているはずなのに、何故、感じた記憶(実感)が残っているのだろう?」と疑問に感じたんです。
>で、辿り着いた結論が、それです。
>これならば、絶対に触れていながら相対に戻って来られる理由も簡単です。
>意識が電光石火の働きで往復しているのであれば、相対に意識が来た際に、そのままで居れば戻れる訳ですから。(^^)


これは私、人生で、一度も発想したことがありませんでした。完全な初耳です。
確かに、邂逅の記憶は残るんですよね。なんらかのイメージにしても、それは相対的なイメージであって、後づけでマインドがやったのをリアルタイムで起こったことだと勘違いしているのかもしれませんし、光龍さんの意識往復説は卓見だと思います。
光龍さんの一番おっしゃりたいことは絶対意識(虚空)と相対意識は両立しないはず、ということですよね?これは私にはわからないです。マインドはそれに到達できないんですけど、それはマインドのすべてに到達できるとも思うんですよね。


>それから、相対の世界は広く、物質の固まりのレベルから気体の様に遍満しているレベルまで様々なのだと感じます。
>でも、何らかのカタチを以って存在している以上、そこは相対だと私は理解しています。
>(念の為、絶対、相対と、言葉を使わなければならないので、そう名付けてはいますが…それにより優劣があるわけではありません。)


これは大変申し訳ないです。逆に気を遣っていただく結果になってしまったみたいです。論理的に光龍さんの捉え方は完全に正しいものです。共通の定義がないなかで私のほうが説明不足でした。ただ大いなる光(透明な光)というほぼ最重要の話だったので、単語のイメージからの相対的な救済という解釈にはもう少しだけご説明させていただくほうが光龍さんに対して真摯だろうと思ったんです。拙い主観的体験の感覚ですので、お耳汚しということでご容赦ください。


> >「私はない」とは誰も感じないわけですから、最も「曖昧」な誘導と修行者からは文句が出そうですけどね^^;
>そこです、大事な所は!(と、私は思います。 ^^;)
>思考による理解ではなく、「ん?何かがおかしい!?」と気付ければ、意識のシフトは始まります。(笑)
>キーワードは四つ。
>『私』『在る』『感覚』『見守る』
>これらの言葉を、とことん突き詰めて、煮詰めて、「言葉の意味」から「純粋な体感」へと変化させて。
>それらを、今度は言葉を使わずに構築し直し、自分自身に当てはめて、純粋に見詰めてみます。
>(これ、言葉で説明するのは、とんでもなく難しいですぅ~^^; たぶん、何言っているのか?訳わかんないですよね。。。)


いや、純粋な体感にまで光龍さんが煮詰めた財産ですから、私も体感として学びたいとは思います。入り口は違っても、どこかで交差できたら嬉しいです。四つが二つぐらいになると私にもわかりやすくていいんですけどね^^


>それまでは、「私は在る」という感覚が究極だと感じていたのに…(でも実は、「私は在る」という感覚を純粋に感じられる所まで行かれたのは、大変な進歩なんですよね。)


究極って、結局のところ万人を納得させられる「なにか」なのではないかって思うんです。万人とはどんな状況の人に対しても怖れを捨てさせることのできる暖かいなにかです。光龍さんの本質でもあります^^


>正体不明の、存在を直に感じる事も出来ないのに…でも、そこに、確かに、何か在る。
>それが、真我で、虚空です。(^^)


みえないなにかを求める旅はつらいものです。目にみえない傷を抱えた人がたくさんいます。私たちは幸運です。こうして、虚空を追おうとする認識に立ち、いまと向かい合えますから。


>でも、それは決して掴む事も、認識する事も、直に感じる事も出来ません。
>もし、それらが出来たとしたら、対象を新たに創り出しただけで、観察すれば消えてしまう幻です。(^^;)


おっしゃるとおりだと思います。


>この、「でも、そこに、確かに、何か在る」という感じ。
>これこそが、『包丁は自分を斬る事は出来ない』とか『眼は自分を見る事が出来ない』というもの(比喩)の事だと思うのです。
>
>で、これを何年間か続けていたら、真我実現しちゃうのかなぁ~?って思ったんですね。(^^;)


道なき道はどこにつながっているかわからないから、見つけたときの喜びも大きいのかもしれませんね^^


>(でも今は、Yさんのワークショップでやった事の方が面白いし、急務の様に感じるので、ニサルガダッタ・マハラジさんの方はお休みしています。笑)


光龍さんの認識にはたくさんの気づきをいつもいただいています。またぜひ教えてください^^
【2013/12/05 21:30】
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