リンゴの部屋


真っ暗な部屋があるとする。何もみえないくらい真っ暗だ。
そこに突然リンゴが浮かびあがる。赤い、丸い、みずみずしいリンゴだ。


これが世界のすべてだとすると、これを頭が解釈するとき構成要素は三つになる。
第一に部屋。無とも呼ばれる。
第二に光。気づきとも呼ばれる。
第三にリンゴ。人間とも呼ばれる。


第一が虚空。真我。
第二が「気づき」の側面。透明な光。
第三がマーヤー(幻影)。プレイヤー感覚。


第二と第三は同じものか注意してみよう。
気づきは気づかれているリンゴと分かれているか?
いや、同一だろう。


気づきの側面を言葉で表現しようとするときに、気づき気づきと誰もが言うようになるだけで、気づきとは観念にすぎない。
実際の「土地」としての気づきはリンゴそのものだ。気づきはリンゴとして顕れていると言える。


だが、リンゴだけが気づきが気づけるものか?


それも違う。気づきは気づきに気づける。
ここが大事な点だろう。
意識は意識を意識できる。
ややこしいが、気づく力が実在するなら、気づく力は気づく力自体に気づく力があるはずなのだ。


ここで第一と第二は同じものかまた注意してみる。
虚空は無と呼ばれているが、無は「なにもない」という観念でしかない。
虚空は紛れもない実在であり、


なにかが存在できるなら、その存在を許容する「空間」が必要となる。


この空間が虚空であり、あらゆる神を超越する神となる(空間は比喩にすぎない。機能が似ているという感じ)。
観念では、この実在を追うことは不可能で、マインドでも到達は不可能だ。


さらにややこしい書き方だけれども、気づく力が存在するなら、気づく力とその千変万化な顕れを許容する空間が必要であり、それらは気づき、気づかれるものと同一だ。


この場合、虚空を追う人間にとって注意したほうがいいことはなんだろうか。


リンゴとしての感覚に意識の焦点をあわせる方法では、この舞台は続いてしまう。
無意識にリンゴしか存在しないと信じ込んでいるエゴに一緒に騙されるからだ。


リンゴごと周囲の空間「部屋」に意識の焦点をあわせるしかないということだ。


実体不明ながら、真っ暗で何も見えず、存在するのかどうかも確かではない空間に意識の焦点をあわせ、気づく力が気づく力自体に気づくという賭けに全額を賭けるしかないのだ。


つづく
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Fiora & nobody