雷鳴


突然轟いた雷鳴にびっくりするマインド(今夜も「リンゴ」と呼ぶ)と、びっくりしないでリアルタイムで雷鳴に気づいている意識(これを今夜は便宜上「雷鳴」と呼ぶことにする)と二種類があり、「リンゴ」はふだんマインドに振り回されていて、雷鳴が自分の中にいつも存在することをまったく意識していない。


雷鳴は誰のなかにもある。最初からある。生まれたときからある。生まれるまえからあるかもしれない。


ではリンゴの自意識は?これはもっと後に生まれた。4歳頃だ。物心がついた時に生まれた。「自分」という感覚を「他者」と分け、記憶を今この瞬間に持ち込めるようになった時に生まれた。



たとえばnobodyがのび太君よりヘタレで怠け者だとする。このヘタレは4歳に生まれた方のマインドだ。雷鳴ではない。


雷鳴はヘタレでもないし、怠け者でもないし、一切の価値判断をしない。なのに普段のリンゴは雷鳴のことを知らない。存在を知らない。リンゴマインドで「生きるしかない」と思い込んでいる。選択肢はそれしかないと思い込んでいる。


自分を臆病だと感じている人は、この4歳からの付き合いのリンゴマインドのことをそう評価している。何かを怖れている人は、リンゴマインドが対処できない状況を怖れている。


リンゴマインドしか私にはない!私は「選べない」。この思い込みが絶望の原因になる。


違うのだ。あなたには「雷鳴」がある。


天候の変化に気づくのを待つ必要もない。車が通り過ぎる音でも雷鳴に気づけるし、床を踏みしめる足の裏の感覚でも雷鳴に気づける。呼吸でも雷鳴に気づける。


そして雷鳴は「思考の発生」にもリアルタイムで気づけるのだ。思考観察の訓練をたくさん積んだ人が「気づく力」を持っているのではない。誰もが最初から雷鳴の力で「思考や感情を発生時点から厳密に観察できてしまう能力」を持っている。この力に限界はない。遅延はない。


それがリンゴには「できない」。気づけない。いつもぼーっとしている。過去を後悔したり、未来を怖れている。


ここからが重要だ。
リンゴは「雷鳴」に気づけない。
雷鳴が「雷鳴」に気づく力を持っている。


思考観察はリンゴの努力ではない。リンゴが雷鳴にバトンタッチ(手放し)して、雷鳴に雷鳴自体に気づいてもらう過程なのだ。


この実践課程で重要なことは、
いまどちらに意識が立っているかということ。いまどっち?


リンゴか。
雷鳴か。


どちらかしかない。リンゴの場合、雷鳴に「(リアルタイムで)気づけなくなる」ので、目的をまったく達成できない。どんなに血を吐くような努力をしても無駄だ。
なぜこんなことを強調するかと言うと、
「リンゴ自体がリンゴには本質的に状況を変える力がない」という自覚を得ない限り、抵抗が続いてしまい、手放しが不可能になるからだ。これが最大の難関と言える。


雷鳴には極めて大きな特徴がある。
「思考がまったく発生しない」「思考ゼロ」これが雷鳴だ。思考を生むのは、リンゴだ。例外は存在しない、と思われる(このあたりはみなさんの経験をぜひお聞きしたい)。


思考観察はリンゴが思考を観察する努力過程ではない。
なぜか最初から思考に巻き込まれることなく、すべて等分に気づいてしまう能力をもっている雷鳴に「すべてお任せし」雷鳴こそ真の「現実の主体」かどうかを自分で検証してもらうのだ。


内容ではない。主語の問題だ。
主語が「リンゴ」なら失敗する。
「雷鳴」なら失敗はない。


気づく力が気づく力自体に気づくまで、意識の焦点を「私」から外し、「思考」から外し(思考観察という言葉はだから誤解を生みやすい)、「いまリアルタイムであらゆる物事の発生に気づいている意識」自体に「気づいている意識の焦点」を向ける(雷鳴の焦点ってコントロールできるの?と語弊が生まれるかもしれないが、雷鳴の無差別に気づく力が無差別に気づく力自体に気づくのをとどまって待つ)。「自分で自分を観させる」のだ。


つづく
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