門出


こいさん、おめでとうございます^^
こいさんの真の勇気を心から尊敬しています。
傷つき迷う兄弟姉妹の灯火でありつづけてください。



 正しいか間違っているかの前にあるがある


解釈の前にあるがあります。もう少し「未来」には良くなるんじゃないか、という発想はこのいまの「ある」の一部であって、固定観念で構成された空想上の棚の形状のようなものです。過去の足跡も同様で、足跡はいま「ある」の一部であって、棚のかたちです。


否定できないのは「ある」だけであって、それは否定を起こそうとする前に「ある」からです。
努力してなにかがみつかるだろうというのは空想であって、いま「ある」があります。


許すか、許さないかの前に「ある」
抵抗するか、手放すかの前に「ある」


行為の前に「ある」
思考の前に「ある」


この「ある」空間の「中を」特定の方向に向けて移動している感覚が行為者の感覚です。
特定の方向というのは、それ以外の方向を捨てることを意味します。


あるは捨てていません。気づいているだけです。
なにも捨てず、なにも足さず、気づいているだけです。
マインドは捨てたがり、足したがっていますが、マインドのそういう姿勢に気づけるのはマインドがわたし(のすべて)ではないからです。もう少し別の要素があります。


いま無条件に自分を宥しているとは、行為ではなく、否定できない「ある」にゆだねていることです。ゆだねる「主体」があるわけではなく、「ある」の上で何かを起こそうとするいつもの意識が止まることです。空想の棚を構築するパターンが再展開する前に、「ある」がままにゆだねていることです。nobody



この単純な真理にどうか目覚めてほしいと思います。つまり、あなたが求めているものは、絶対的に完全に豊かに存在する、今この瞬間に完璧に存在する、という真理です。それはこの場所にあり、あなたの内側にあり、あなたの外側にあり、目に見えるところにも見えないところにも、あらゆるところにあります。「神秘的な何か」はすべてのもののなかにあります。


ですから、それを手に入れるために、どこかへ行ったり未来のいつかを待ったりする必要はありません。自分を磨き上げて「大いなる光」を呼び寄せる必要もありません。自分のなかから否定的な思考を取り除いて、もっと清らかになろうとしても、「大いなる光」を引きつけるほどの輝きを得ることはできません。なぜならそのことと、自分が「大いなる光」であることを発見することとのあいだには、何の関係もないからです。


自分が「光」であることを自覚するために、「光」はもっと輝きを増さなくてはならない、などと考えるのはじつにバカげたことではありませんか。自分がすでにそうであるものになるために努力しなければならない、などと考えるのはおかしなことではないでしょうか。するべきことはただひとつ、決心することです。

自分が今この瞬間、覚醒者であるということを認める意志があるのかどうか、深く自分の心に問いかけてください。その決心をする日がいつかはやってくるはずです。次にあげる二点について信じる意志がありますか。まず、神は在るということ。もうひとつは、何ひとつ今の自分を変えることなく、今のあるがままの姿で自分も神である、ということです。あなたは自分の本質についての真理を受け入れ、あらゆる瞬間にその真理を体験する意志がありますか。bartholomew



上記のバーソロミューの表現は無駄がなく、結晶のようなものです。覚醒するまでの最高のあり方についてバーソロミューが語ったことがあって、それは「いつも瞬間にいる」ことだと。瞬間にいるならマインドは勝手に静まるので、多量の思考には悩まされないし、解釈から離れることになるので、分離感を感じ続けようとすることもできない。


で、それは具体的にはどういうこと?というと、「肉体の中に」意識があることは必要条件です。肉体に接触しているものの肌触りとか、周囲を吹く風のこと、腰痛なら腰の痛み、頭のてっぺんから足のつまさきまで、全部感じていること、そういうことですね。これはバーソロミューがかつて人間だった時にやった方法です。今この瞬間の「あらゆるエネルギーの動き」に集中することです。それは気づいている主体を気にせず、気づかれているものの全体だけをありのままに感じ、受け取り、体験します。


では思考観察はどうかというと、頭蓋骨の中に集中していますので、意識を特定方向に向けていることです。でも肉体を見ているわけではなくて、「気づきが気づきを見ていること」に集中することです。「思考に」気づいているというのは便宜上の話であって、思考という感知できるエネルギーに気づいている、ならそれ自体は思考ではないのだから、そこから入ろうよということです。気づきが気づきに気づくことの習慣化で定着が起きると。その際に「思考」というのは問題・厄介事を生み出す根源的なポイントなので、この中心的問題と同一視・同一化を起こさなくなるのは道の途中過程でも大きなメリットだよと。


愛の話、また後伸ばしになってます。また明日です。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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Fiora & nobody