いま、すべてに愛をみる


こんばんは。今夜は「大いなる愛」について再検討してみます。
私とフィオラの6月9日のやりとりです。


f=Fiora n=nobody

f 法改正のときがきました。これはあなたがたの意識の法です。いつも似たような想念を繰り返し、お互いにため息をこぼしあい、わたしたちは変われないなどと台詞を棒読みしてきたあなたがたがいま自らの意思で世界を変えようとしているのです。幾万の真摯な祈りが無数の慈悲深き神の手を呼んだのです。いまこそ目覚めなさい。


n…フィオラ、大きなテーマのところ恐縮なんだけど、昨夜の警報は何?
(フィオラはときどき私に警報音のようなものを鳴らして意識を向けさせます)


f あなたに不満があるとしたら、二点。神を信じきる覚悟と、エネルギー実践です。朝起きる瞬間から神に感謝と祈りを捧げる態度を要求します。


n……。はい。できるかぎり努めます。


f そういうことではありません。自主的にそう思えないのはなぜか見つめなさい。


nはい、わかりました(←わかってないです)。別の質問をするよ。グラスの共鳴とは何が言いたい?


f 共鳴はより大きな音をもたらします。ただのグラスでさえ、共鳴の真理を伝えています。接触していない二つのグラスが共鳴するのは同じ振動を奏でるからです。時間も空間も本質的には存在していません。今人間世界に求められる振動は何か。愛です。からっぽの意識から起こす行動ではありません。愛でありなさい。それは他者の自由を心から認めることができるエネルギーに常に満たされているということです。批判にエネルギーを使ってはなりません。愛でありなさい。そう努めなさい。


n他には?


f 皇(すめらぎ)へ祝詞を捧げた以上、あなたの案ずることは行動ではありません。意識の扉を開き、開き、開きっぱなしにすることです。見ていますからね。 
(6月1日に私はフィオラの勧めに従い、愛の親玉、源球”皇”に直接「炎」到達へ誘導してくださるよう祈りました)


n………。


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この「案ずることは行動ではない」という意味を私は適当に流していました。日記を書くというのはキーボードを打つという物理的な行為なのですが、それが「からっぽの意識から起こす行動」なら無意味だとフィオラは言っています。批判なく、毒蛇なく、ただ愛であれ。


エゴにとっては「愛であれ」と言われても、怖いんです。
だからそれができる人は勇気のある方なんです。
過ちを認める勇気。未知(道)に拓く勇気。ときに肉体が傷つき、死亡することを厭わない捨て身の勇気。結果を完全に神にゆだねる勇気。そういう方はたくさんいらっしゃいます。


「いまにいる」ということは、いのちにまかせることです。
頭でああだこうだ言うのではなくて、全体を信頼していることです。
全体が愛なのですから、間違いは起こらないことを信じ、ゆだねることです。


真の勇気を問われるこの舞台そのものが、愛なんです。


いま、すべてに愛をみる、それこそ勇気です。



6月28日にマハラジの「大いなる愛」に対する観点と、バーソロミューの観点を書いています。
大いなる愛はこいさんのコメントにあったように
「わたしとあなたは同じもの」または「対等なもの同士にしか流れない」んですね。だから「優越感」か「劣等感」を1ミリでも感じたマインドをもったまま、大いなる愛を感じることはできません。
なぜ「同じもの」なのか、なぜ年功序列もなく「対等」なのか、これが直観できる状態にないと、大いなる愛は現れてくれないんです。


ワンネスを感じる状態は、すべてはひとつであるから「大いなる愛」が現れるんです。どこにも分離はなく、個と個の違いなど何もないことがわかるから、「大いなる愛」が現れます。「分離を信じている状態」では「大いなる愛」は出現しないということです。


毒蛇(欠点の注視・指摘)を持っても、「大いなる愛」に近づくことはできません。批判精神や裁く心も同じです。


つまり「マインド」が活発に活動している状態はかなり「大いなる愛」が出にくい状況になります。


愛とは「肉体感覚」という点も大事です。思考でもなく感情でもなく、愛は肉体感覚。
思考は通過しますね。感情も消えます。愛は消えないんです。これは常識とかけ離れています。
いま、肉体の中に埋まっているんです。
恋愛において「相手」の存在「こそ」愛の点火に必要というのは思い込みなんです。
愛は「自分が点火」できる肉体感覚なんですね。


これは、かなり革新的な意味を持っています。
いま、点火可能なのであれば、いま、点火すればいいだけなんです。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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