観照視点について


たとえば観照視点などと言うと、何ソレどこで手に入るの?
のように今はなくて、未来に手に入るモノに思えてしまう。


そうではなかったりする。
私は人間です。私は体です。私は体のもつ五感から収集されるデータです。
この常識が「今この瞬間に間違っている」ということを見極めないと「自分が」「観照視点」であることに気づかない。


自分のことを動くものだと思ってたら
「止まっている一つの目」だった。


そうすると「抵抗」に対する感覚が変わる。
確かに個体としての身体の側面はある。あると見ればある。ないと見ればない。


ないと見ればないときでさえ、「一つの目」は絶対の現実として揺るがない。


一つの目に対して「常識のほうが嘘をついている」


想念は動くものだ。
だからトビウオのような嘘にすぎない。


絶対の現実はトビウオが出てきて沈む静寂の湖面にある。


言葉が現れて消える沈黙にある。
今この瞬間のトビウオと湖面がわかるだろうか。


この湖面が「私」の誕生する場所だ。
某有名ブログで「いま+ここ」というのがあるが、ただのいまここではない。
それは
「推測のないいまここ」でなければならない。
「憶測のないいまここ」
「想念のないいまここ」
「私のないいまここ」


これらの実現に努力が必要だろうか?
それは違う。
努力なしで、もう実現していて、それが「わたしとイコール」だから考え方は逆転しなければならない。


邪魔しないこと


なのだ。


私が、警官のフリをやめて、泥棒であることを自覚し、
サレンダーして、お縄につく


邪魔を落とすこと


そして苦闘は終わっていたことに気づく。
そんな旅は「なかった」のだ。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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Fiora & nobody