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私は「ない」です。
「わたしは在る」は、言われなくても、考えてなくても、守らなくても在るので放っておくだけです。


「私」はないからこそ、残るのが透明の空間なんです。
そこでは気づきだけが働いていて、スイッチのONもOFFもなく、抵抗しようにも、しようがないんです。


これは老子が言ったことですが、空の舟にぶつかって「相手に怒るでしょうか?」
怒るのは人が乗っていて、避けたり、事態を防いだりできる「選択の主体」がいると信じられるときだけなんです。


もしも、誰も「いなかった」ら?
怒ったり、苦しんだり、続けられますか?


それは不可能です。
喧嘩相手がいないのに、喧嘩はできません。


「私」がいる
「選択ができる」と思っている
「責任がある」と思っている
「重圧」を感じている


「私」がいるかどうか検証できるのは今この瞬間です。
カニッツァの三角形のとおりです。

実体があるように感じていた三角形の「実体はなかった」
ないが、あるように見えていた。
細かく調査するまで「実体がないことに気づけなかった」


肉体と記憶です。
特に記憶が「行為者」の実体があるように思わせています。
記憶とは、つまり時間の信念でもあります。
1秒前があるから、反対の未来という概念も生まれます。
覚醒に気づくのは、記憶の今この瞬間への持ちこみをしなくなってからです。
記憶の持ちこみ自体が妨害なんです。


もしも実体が、肉体ではなくて、肉体を含む空間そのものだったら。


世界を三次元だと解釈していても、実際は二次元の視覚しか見ていません。
実際のデータよりも、解釈のつじつま合わせが感覚を歪ませています。
感覚よりも「想像」を上位においた「見方」を確立しているんです。


肉体がてくてく動いているから、肉体が行為すると思った。
思ったが、肉体を見ているコレは肉体ではないかどうかは検証していなかった。


「すべてが起こる空間」を今この瞬間に見逃しているなんてことがありうるでしょうか。
これが、あるんです。

1番、「私」を前提にして、心(マインド)から外側を見ている「いまここ」

2番、「私」の実体がないことを確認して、気づき(真我)からただ在る「いまここ」


1番を見ていると2番が消失するんです。
この極めて単純な「見方の違い」が実際に今この瞬間にあります。


風がわたしの中をなにもふれずに通り過ぎていく感覚です。


なぜならわたしは空間だからです。起こりをただ起こらせる空間に、抵抗の主体も実体もありません。


信じられない事態が起こります。
「私」がいると信じて、肉体にそれを重ねていたからこそ、
明らかな事実に気づかなかったんです。


それは、わたしと感じていたのは空間であって
肉体に名づけられた「私」ではなかったということです。


主観は、今も、昔も、これからも、最初から「空間」の主観だったんです。
主観はそのままです。


ですが、主観が「私」のものではなかったことがわかります。


「私」は誤解で、錯覚だったんです。


重要なのは、「思考」と「感情」は起こる側であって、
「わたし」ではないということです。


「思考」が流れる瞬間、そして「感情」が流れる瞬間を、抵抗なく見つめている空間の視点が今この瞬間に存在していて、「私」さえないことを確認していれば、在ることができます。



名状しがたい存在


質問者 グルは不可避なのでしょうか?


マハラジ  それは「母親は避けることはできないものなのでしょうか?」と尋ねるようなものだ。意識のなかで、ひとつの領域からより高い領域に上がっていくには助けが必要だ。助けがつねに人間の形を取るとはかぎらない。それは名状しがたい存在かもしれない。あるいは直感のひらめきかもしれない。しかし、助けは来なければならない。内なる真我は、息子が父親のもとに戻ってくるのを待っているのだ。時節が調えば、彼は愛情深く、効果的にすべての手はずを整える。メッセンジャーや指導者が必要なとき、真我が必要を満たすためにグルを送るのだ。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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