七夕って好きなんです。
トシさんとskさんにご質問いただいた感覚について先にお返事します。
まずトシさんの「ただ在ろうと安寧な感覚でいると、正体不明な爽快な波のような 感覚が武者震いするように全身に、特に上半身に湧き上がる」という感覚ですが、
ほぼ間違いなく窓から光が入ってきているということだと思います。
ただ在ることに慣れてきていらっしゃって今まで妨害していた「壁」が薄くなってきているか、もともと幻に過ぎなかったことが自覚されてきている、ということだと思います。
光自体には決定的な特徴がありまして、それは「絶対的」な安心感・幸福感・愛・歓喜・自由を感じることです。絶対かどうかが自分でわかるので、それがそれだとわかります。
「相対的」に比較して、あれに比べればこれはちょっとマシだろうかなどの疑問が生まれないんですね。それが「絶対」のものだと直知される、それらはすべて「神」に分類される永遠の性質をもつエネルギーです。
それが本当の「わたし」に触れた証拠です。
これを感じている最中に他者の自由を制限しようとか、起こっていることに抵抗しようとする「動機」はぺしゃんこに消滅します。求めるものは、もうまったくなくなります。
なぜなら、自分が「すべて」であることが直感的にわかるからです。
その「すべて」は「無限に愛し愛されていて」不安がまったくありません。
これは永遠に続いている現実であり、下地であり、失われたことは一度もありません。
ですから、そんなことを想像だにしないこちらの現実世界のほうが夢なんです。
この夢の世界の住人は「私」がいると強固に信じることで、
この現実のエネルギーとのつながりを絶って(不快な感情の上書きのようなもの)います。
このつながりを取り戻すためには「私」がいないことに決定的に気づくことだけで完了します。
決定的に気づくのであって、ときどき思い出すということではありません。
「私」がいないということは、その瞬間から、気づきのみしかないということです。
言い換えますと
気づきに「抵抗できる主体がないことをいまこの瞬間自覚している」ということです。
気づきしかない。抵抗主体がない。
この環境で、すべてを「トータルにひとつ」として感じます。
それはひとつで在ることであり、ひとつの流れそのものにゆだねきっていることです。
ここに想念が混じってもいいでしょうか。
いいです。想念が湧いてきた場合、「私」がいないことを自覚していれば、それはただの想念です。
ひとつの一部なのであって「あるがまま」の流れそのものです。
想念は小川を流れる笹舟のようにサラサラと流れていきます。
そしてその数は自然に減少していきます。
これが「私」があると感じている場合はまったく違うパターンになります。
想念は相応する感情を発生させ、この「感情が魂に記録」されます。
魂はヘソ上4センチにある球体で、これが胸の球体の指示の下カルマと運命の台本を今この瞬間に形作ります。
今までにどのような「感情を抱いたことがあるか」がすべて魂に記録されている。
人がとりうる創造のパターンはおおまかに二種類です。
1、ただ在る真我のエネルギーにとどまる
2、いままでに発生させた感情の(累積)を解消するまで引き寄せられる出来事に翻弄される
無意識に生きていると自分が特定の種類の「感情の累積」に引き寄せられていることに気づけません。これは生死を越えますので、この解消のために転生は繰り返されます。
運命・カルマを乗り越え、創造の自由を取り戻すためには、1番から発生する炎で運命を焼き尽くすことです。
真我は、運命+感情の累積+魂よりも強いためこれらを最適化します。
魂に固有の全体に捧げられるべき個性が輝き出します。運命は全体に最大の貢献をするように組み替えられます。
話が反れてたらごめんなさい。
続けます。
「日常生活の中で、考えることによって苦しんでいる心がいます。 電車の中などでは、(先ほどの上の質問のように)ただ在ろうとして、 苦しみを溶かすようにしています。しかしまた考え出すと苦しみます。 思考には自我(エゴ)が考える苦しむ方向(否定的思考)と、 理性から考える方向(全体的思考)があるのでしょうか?」
まずですね、私が思いますのは
考える方向は、すべて苦しみだと思います。
全体的思考というのは、
思考のようにちょろちょろ「考える」のではなくて、
全データが一瞬で、一気に「わかる」全知の境地があります。
科学者の新発見はコレで「飛んでる」のだと思います。
こちらの世界では教科書を5ページ分暗記するときに、1ページずつ順番に覚えていきますが、本来時間はないため、すべてが同時に「わかる」のが本当の宇宙の構造です。ちょっと信じがたいですが、こちらが本来の光の存在の力なんです。
また考えることに関しては
以前MANAさん(スターハートさん)が考案されていた説明の仕方も私は好きです。
元記事の場所がわからなくなってしまったのですが、
考えること=一点に焦点をあてること
感じること=全体を受け取ること
というような説明をされていました。
考えることはもちろん心(マインド)の大事な機能です。
これがなければ日常生活もままなりませんが、おっしゃっている苦しみは
考えたことによって生じていますので、犯人は直接的に「考えたこと」です。
考える主体というのは自我(記憶を今この瞬間に持ち込んだことによって生じる断続的な瞬間意識)ですので、考える「都度、新しい自我」が生まれています。
5分前に考えて苦しんだ自我と、いま考えて苦しんでいる自我は違う自我なんです。
本人は継続していると主張しますが、新しく生まれたばかりのまったく正当性のない意識です。
問題なのはこの自我の言うこと「想念→苦しみ」を深刻に受け止めることです。
深刻に受け止めると自我の狙いどおりになります。
考えることによって、「解決」しようと奮闘してしまうんです。
考えたら「感じること」ができなくなります。
考えた自分を一回一回「本当のわたしとは関係ないのではないか?」と検証していくことをお勧めさせてください。
考えたのはトシさんではなくて「自我」です。
苦しんでいるのも「自我」なんです。
では自我とは何者か。実体があるのか。ありません。
そして不安なんです。分離を信じているからです。「私」を信じているからです。
苦しんでいる瞬間に「分離した私」を信じていることに気づけるでしょうか。
「私」を突き止めてみていただければと思います。
ここまで思うままにつらつら書きましたが、トシさんの疑問のお答えになってるでしょうか?
もし不十分であればまたおっしゃってください。
skさん、skさんにはまた明日ご返信させていただきますね。
この自分に、ありのままのみんなに、苦しみは不要です。光を思い出そう。
HN:
Fiora & nobody