基本の基本 「高まる」
すごくぶっちゃけて言うとですね、どの瞬間も、どの状況も
正体不明のエネルギーの「高まる」感覚を感じていないと「おかしい」んです。
感じていないということは、何かが今この瞬間に妨害しているはずで、
99%それは自我です。他の要因があるかはいまのところ私は見つけたことがありません。
「私」を維持しながらモノを見るから「光の明度」が覆われて下がっているんです。
遮光カーテンみたいな。
エネルギーが高まっていく感覚がどんなに微小なものでも構いません。
それそのものがセンサーです。
「私は在る」実践中でも例外なく100%「高まる」と対になっていないとおかしいと私は思います。レスポンスは1秒待たずに来るのではないでしょうか。
ハートチャクラから愛が溢れて溢れてしょうがありません!とか
無限の広がりと平穏・平和に包まれているとか。
雲が晴れて日光が差し込み、暖かくなります。
たとえば今この瞬間に鳥が鳴いたとします。
鳥が鳴いたのを聞いている「私」がいると、
鳥が鳴いている「本当の姿」は聞こえていません。
ありのままの鳥の鳴き声は聞けていないんですね。
鳥が鳴いているのに「私」が介入した結果だけ体験していることになります。
「私」が介入しないときだけ、本来のデザインが輝きだします。
わざわざ介入なんてしてないよ!というところなんですが、
高まるぅぅがないということは、余計な遮光カーテンを通してしまっているんです。
思考と感情が一回一回湧きますよね。
その度に「これではない、あれではない」(ネティネティ)関係性を否定していきます。
または本当の自分とは関係ないことを認識していきます。一回一回です。
空間の中で出現し、通過し、消失する現象と、
空間には何の関係もありません。
空間がそれらすべての体験を「可能にしている」だけです。
ではどっちが本物で、わたしなのか。
これは明らかです。
なぜなら、気づきは気づき「続けている」からです。
さっきも、今この瞬間も、変わらずずっと「続けている」から、「続いていない中身」はわたしではありません。
静寂の湖面は現し「つづけ」消し「つづけ」ています。
努力不要で「つづけ」ているこちらが本物です。
窓は壁の不在 そして光が(この日記の窓は、意識の焦点)
体験の中に大いなる光が(含まれていて)
窓からのみ光が入ってきます(光は限定されないため、それ以外の方法も可)
人が待ち望んでいるのはこの光です
壁の不在を達成するとは、壁が不在であることに気づいているということです
壁の不在に無自覚では光は入りません
壁とは自我であり自己防衛であり、自己戦略です
思っているのと真逆で、大いなる光である「本当のわたし」の「感覚」の最大のお荷物がこの「自己(という錯覚)」です
星(魂)は空(全体)に捧げられています
壁の不在は最初は「意識的に自覚」します
同時に窓が開く感覚が生まれるかもしれません
目覚めはただただ「壁の不在」です
闘争に不在
抵抗に不在
摩擦に不在
それは想念との軋轢に不在です
いまに開かれた窓とは
壁の不在です
是非を問うているのではなく
(対象ではなく、すべてが)ここに存在していることを認識するだけです
HN:
Fiora & nobody