こんばんは。昨夜の続きです。
skさんのおっしゃっていた内容も感覚的にはトシさんに似ているようです。
「私も最近、トシさんのように、何もせず在ろうとしたり、今感じている感情を受け入れようとじっとしていると、武者震いのような感覚が湧いてくることがあります。あと、松果体に意識を向けるとそうなるような気がしています」
武者震いのような感覚が、ただ在ることや松果体に意識を向けることで起こってくるんですね。
トシさんと同じように、光の感覚だと思います。
肉体には長年累積してきた感情が詰まっていて、感情エネルギーを解放するときに震えが起こることもあるようです。眠気がまったくないのにあくびが発生することもあります。
私が勝手に思うことなんですが、
長年(skさんは興味をもたれてから10年以上とおっしゃってました)こういう求道をされている方は、宿命のようなものが動いていると思います。
skさんがいまどのような感覚に出会っても、または出会わなくても、
必ず起こったことには裏の意味、より高位の目的があり、結実します。
理性では、意味がわからないだけなんです。
そしてそんなものあるわけないと疑いやすいし、ブレやすい。
それでも今までの過程のすべて、細かいところまでそれが発生した理由・高位の目的があると思うんです。
実際に探求を終わらせる最短距離は
「私」をとらえること。
私が幻であることがわかれば、光に満ちます。
苦しみは、「私」がいないと維持できないんです。
いまなんらかの不快感や感情、疑念などが存在できる理由は
想念の「私」がいる、これだけです。
「私」をいつ維持しているか「気づいている」ことができますか。
14時から18時まで「私」がいた、と気づいていることはできません。
なぜなら気づいていると、
「私がいない」ことに気づいてしまうからです。
「私」は推測なんです。
不注意に心を外側に向けるときだけ「私がいるような気がする」んです。
気づいていないときだけ「私がいるような気がする」
気づいていると「私はいない」
「私がいるような気がする」は
「抵抗できそうな気がする」と同義です。
不可分の流れに対して「分離した主体の私で」「抵抗する選択肢もあるのだと感じる」
分離しているなら操作できるはずだからです。
「行為者」の感覚は空想なんです。
実際にここにあるのは「頼んでもいないのになぜか在る気づき」です。
在る、は静止しています。
在る、だけが止まっています。
在る、に対して周囲の物事が「起こって」くるんです。
仕事中に行為している「私」がいる、は幻です。
実際は在る、んです。
「私」がいないか周囲の気配をじっと感じている状態を「在る」と言います。
「私」がいないことを認識してはじめて
「わたしは在る」という純粋な存在の感覚だけが残ります。
まとまりがありませんでしたが、今夜はここまでにしますね。
HN:
Fiora & nobody