今この瞬間の「立脚点」はどこか


立脚点が私という「想念」の場合、フィオラの言葉なら空を四角く切り取ったつもりの心になります。
そこには果てしなく広がる広大無辺さ、底抜けに明るいエネルギー、真の意味での非利己的な本性がありません。


造られたもの、は台本の演技です。
心は、分離を信じる想念から発生する根源的な不安を埋めるために逃避行動に入ります。
対象に依存してしまうんです。または環境を操作しようとします。


では、立脚点が「存在」ならどうでしょうか。


何ももたない、何でもない、存在そのものの力を今この「肉体」を通して「肉体」に感じる。
意識の焦点は肉体ではなく「空間」です。
結果として「肉体」に空のエネルギーの反応を受けます。


それはいま、いのちの息吹を感じること。


肉体感覚は一人一人異なり、魂の気質や特性も違います。
ですから、「わたしは在る」は共通していても体感に多様性があります。


自己のエッセンスをこの身に宿して(感じ取って)から動きます。


己の魂を感じてから、動く。


これは自我(記憶によってカモフラージュされているがただの分離不安)で無意識に動くこととはまったく異なります。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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