要求
今朝起きてすぐ、イタリア人に妙なことを言われた。
150年前の新聞を読みなさい。
よくよく読んだ上で、紙の上に書かれたそれらの文字を書いた者、心配する者、彼らが今も同じ内容を心配しているか、彼らにとって、そしてこの時代を生きるあなたたちにとって、それらの文字の実体とは何だったのか考えてみなさい。
今もあなたは文字を書けますが、それはなんらの正当性をもっていません。
表現の的確さを競っているわけでもありません。
さらに焼かれて灰になるのです。
リアルとは何でしょうか。
文字は何でしょうか。
あなたの人生の、深刻な悩みの実体とは何でしょうか。
フロンティアはいまどこにありますか。
(文字と遊離した、流れと遊離した、顕現と遊離した、コレを指している)
積むのではなく流れるのです。
蓄積せず、取り込まず、本性にゆだねるのです。
という話。
フィオラは蓄積を強調していた。保存食や貯金みたいな感じだろうか。
蓄積が有利に感じるのはわかる。
だが本当は蓄積は起きていない。
蓄積が起きているように見えるのは、人型に生まれて忘れているからだ。
心で現実を掴めると誤解しているからだ。
愛はここにある。
距離が変動することはない。
ペース配分も必要ない。
旅もない。
誤解があるのだ。
HN:
Fiora & nobody