揚げ物で油をとりすぎてしまって、気持ち悪くてたまらなくて後悔していました。
飲みすぎて気持ち悪くてたまらないのとどっちがきついだろうと思うと、この歳になると油のとりすぎのほうがきついです。


「現代のグルジェフの教え」さんより引用させていただきます。


↓引用はじめ


人がもし誠実に自己を観察するなら、普段の自分に「自己への気づき」がないことを確証できることだろう。この観察そのものが自己想起の瞬間であり、自分の眠りというこの確証は自己に対するワークの基礎となるものである。この確証がなければ、自己に対するワークは空想の中で起こるほかはない。


家から外出する直前になって、鍵や携帯電話が見つからないという経験は誰にでもあることだろう。鍵や携帯電話をどこに自分が置いたのか分からないという事実が意味するのは、(いつも置いておく以外の場所に)それを置いた瞬間に注意を払っていなかったということである。その瞬間に注意力は自分の行動に結びついていなかったのであり、こうした場合の大半は、その人が空想の状態にあったといえるだろう。つまり、過去に起こったことや、将来に起こることへの空想に注意力がうばわれていたのである。自己観察とは、特定の瞬間に人が自己に気づき、自分の内面の状態(あるいは自分の外的な行動)を見ることを意味している。自己観察とは、何か自分に起こったことを考えたり、自分の思考を吟味する少し前に頭に浮かんでいた思考について考えることではない。自己観察とは、ある特定の瞬間に何が自分の内面で起こっているのかを見ることを指している。そのため、自己観察とは実際には自己想起の瞬間である。


↑引用おわり


この後、言わば自己観察のこの「スナップショット」(自己の内面に対しても、肉体や周囲の外面に対しても)を言葉によって分析しては意味がない旨が説明されていました。


引用部分の説明は非常に秀逸です。


一回一回の自己想起において、「自己への気づきがなかった」ことの確証がなければ、ワークになっていないという点。


それはつまり心(マインド)側が起動して世界で行為者として活動していることを瞬間的に自覚し、「心のライン」と「気づきのライン」を比較して「ギャップ」を感じ取ることが必須ということです。


スナップショットを撮って「気づきのライン」に引き戻します。
そして同時に沈黙がスタートします。分析する心が少なくともその数瞬の自己想起の間は止まっていることも確認しなければなりません。


自己への気づきがなかったことを自覚すればするほど、自己への気づきとは何なのかが浮き彫りになります。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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Fiora & nobody