クルミ


中身が入っていると想像されているクルミがあります。これがパカッと割れます。
そうして突然「からっぽ」だったことが思い出されます。
外郭が見えているから、「中身が入っていると推測して」いました。


「私」(継続した実体・人格をもつと想像されていた私のこと)など今までに一度も、一瞬も、存在したことはありません。
存在するような「気がしていた」だけです。
人生の全局面で「私」が錯覚ですから、この誤解は大きいです。


クルミの外郭が割れても、何もなくなるわけではありません。
からっぽに「気づいているもの」がいるからです。より大きな、理性の想定外の自己です。
その海のような広大なワンネスは光そのものです。統一された純粋な、愛の光です。


「わたしは在る」という虚空の存在感覚を、
肉体と記憶から勝手に解釈した「個人」として捻じ曲げて受け取っているんです。
(顕現の階層に魂は実際にありますから、故人と霊のような意識存在はいます。真我が一つだからと言って田中さんと佐藤さんの戸籍を統合して一枚にまとめようとか言うのは非現実的です)


今この瞬間に「私」はいません。
それが隠されることなく今この瞬間に見えています。
リアルタイムで観測されています。


でもそう「解釈」できません。なぜなら、物心ついて以来、肉体の右手や左足を動かす感覚、目をつぶったときと開けたときの視界の変化、圧倒的な数の経験を、
「肉体=私」「記憶=私」と思い込みながら経験してきているからです。


最初はこうでした。
4歳頃、昨日の「私」と今日の「私」は同じと思い込んだんです。
好きなもの、嫌いなもの、記憶による経験と感情の結びつけが始まりました。


昨日の「私」という記憶を、実体として「解釈」したんです。
その瞬間に時間と空間を移動する「行為者の私」が生まれました。
これは先天的なものではなく、後天的に獲得された「偽者の私」です。
後天的に獲得されたものだからこそ、剥がれます。
行為者の私は、ただの習慣的な解釈、見方にすぎません。


事実は、
肉体と記憶と「私」は存在していません。


存在しているのは「全宇宙に浸透する大いなる愛の光」です。
これは単一の真我です。
究極の静止と、動の階層に区別して理解する枠組みはありますが枝葉です。


これをもし「スクリーン」と呼ぶなら、
このスクリーンに投影された映像が、あまりにもリアルだったため、自分と世界を誤解してしまうんです。その誤解すら「わざと」です。


ひとつしかないスクリーンを、(想念で)分割して多数と見ていました。
今この瞬間に主体・客体双方の数が「ひとつ」に見えていなければ、分離の無知に覆われてスクリーンを誤解しています。


「ひとつ」に見えるというのは難しいことではありません。
「想念がない」状態のことです。


多数に見えるのが「想念を押しつけている」状態と言えます。
幻の国境線のようにレッテルをぺたぺたと貼っています。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
03 2024/04 05
S M T W T F S
27
28 29 30
HN:
Fiora & nobody