忍者ブログ
年末なのでもうちょっと大事だと思うことを書いていきますね。


自対他の分離というのが、なぜ地上だけの事情と言われるのか、
ある程度意識が拡張するとすぐ思い出すことになるんです。


自分というカタマリなど存在しないことが見えるようになるからなんです。


日本の常識、世界の非常識などと言われるように、
地上の常識、宇宙の非常識なんです。


個として存在しているという感覚にどっぷり浸かったのは、肉体を持ってこの人生を生きて、
しばらくしてからなんですよ。


本当は、意識というのは他人との分離とかないんです。
自分との分離もないです。
自分とか他人というのは映像であって、意識はスクリーン側なんですね。
全然、ちがうものなんです。


そのスクリーン側から見ている視点だけ、綺麗さっぱり忘れてしまっている状態が
「人間として個人化していると思い込んでいる」顕在意識の状態なんです。


ここが大事です。
「スクリーンの意識」がありますよね。これは忘れ去られているんです。
そして「個人の意識」はバリバリ活動していますよね。
そしてこの「個人の意識」は「自分しか存在するわけない」と固く思い込んでいるんです。


ですから、顕在意識としての「あなた」は大いなる愛の光を思い出したときはびっくりします。
自分の中にそんなものが「隠れていた」なんて想像もつかないからです。


他人から侮辱されたり、お前は大したことないなんて言われ続けてきた人も
そのウソがどれほど他愛のないものだったかということを瞬間的に理解します。


この世界まるごとカモフラージュなんですよ。


人のことを好きになる秘訣は、
「その人も自分とまったく同じ愛を求めている」ことに気づけばいいんです。


わたしたちは大いなる愛の光から分離されたことを信じている
「顕在意識のため」
人同士で争ってしまうんです。


本当はみんながみんなのこと一人一人大好きなんです。
どんなに欠点があっても、大好きなんですよ。



二足のわらじ


この世界に生まれて、「二足のわらじを履く」なんてコトワザがあります。
両立しえないような仕事を課されているということなんですが、
限られた物質界の行為と、魂の叫びに応えることは


両立させなければならないことなんです。


魂の叫びには、限られた物質界の行為で応えることはできません。
スピリチュアルというのは、趣味の分野ではないんですね。
全員、一時的に思い出していようが忘れていようが、必須なんです。
霊の調和は、健康はもちろん、経済状態や、仕事の成果にも影響してしまいます。


どちらかを選ばなければならない二律背反ではないですし、なぜ魂の叫びが最重要なのか理解する必要があります。


それは、「それがなければすべてが砕け散る」唯一不変の基盤だからです。


その基盤は放っておいて、人間としての生を楽しめばいいでしょ?という考え方は不正確なんです。


人間として生まれたそもそもの理由が、大いなる愛の光との結びつきを強めるための訓練用のシナリオだからです。
ここで起こる事故や事件、悲劇は教訓として、「わたしの心理的態度」そして「わたしと大いなる愛の光」とはなんなのかマスターするためにあります。


この世というのは、そのために与えられた一時的な修練の舞台なんです。
肉体があるほうが、やりやすいことがあるんですね。


唯一不変の基盤とは、誰のことでしょうか?
これがもしもあなたのことなら、あなたがこれを理解しないまま人生を続けるということは、あなたは変わり続ける自己像を「人形」として抱えたまま、これからのあらゆる苦難に対処しなければならないと「思い込んで余計な荷物を抱えたまま」一種のペナルティを抱えた競技を続けることになります。


この競技は不利です。「あなたが基盤」なのに、あなたはあなたを「それ以下」のものとして押し込めてしまいます。


この基盤について確実に理解している覚醒者を3名上げるなら、
ラマナ・マハルシ
ニサルガダッタ・マハラジ
プンジャジ(パパジ)


だと感じています。


基盤がはっきりとわかるまで、同一視をひとつひとつ外していくんです。
捨てていきます。
それはいまこの瞬間、あなたは同一視しているんですかしていないんですか?という問いかけです。
わたしは誰?
いまこの瞬間、わたしは誰になっているの?
「誰か」になっているのが「手放せるもの」なのか「手放せないもの」なのか検証するんです。
それが探求ですね。



ジョージは安定しない


「ジョージ」が残っているかぎり、アイデンティティとして保持されているかぎり、
安定しないですと?


あなたもわたしもジョージじゃないからです。


ジョージだという思い込みは、間違った思い込みであり、どこかで吹き込まれた誤った観念なんです。観念が問題なのではありません。それを「超信じてる」ことが問題です。


誰が?の質問が大事なのは
今起こっていることを、体験している、気づいているのは誰か?
と問うことで「最も重要な未知」に意識の焦点を戻せるからです。
別の言葉で言うと
「わたしは誰?」です。


それはどこまでいっても既知にはなりえません。つねに未知です。
未知を無視したまま、他のものとも関係をもってもいいじゃない?と思いますよね。
ところがそうじゃないんです。


未知を無視するなら、あなたに振り向いてもらえるまで教訓を贈りましょう。
そういう法則が動いているんです。
それらの教訓がときとしてどれほど悲惨で洒落にならないか想像がつきます。


「それ」は本当にわたしが予測したようなものなのか?なんです。
ジョージではないとわかった人も、もやもやしたゴーストのような「何か」を予測しているかもしれません。
予測のすべては外れています。すべて外れるという性質なんです。
超越と内在は、「それ」の性質とでも言ったほうがいいんです。


つくりあげた自己像というのは、どんなに精巧な自己イメージであろうとも「見られてる」んじゃないの?という質問は急所です。
どんな自己像も「見られてる」のかどうか自分で確かめなきゃいけません。


ジョージが修行しているかぎり、ジョージに誰が気づいているのかが見過ごされてしまっているんですね。この「ジョージがいる=ジョージの奥の存在が見過ごされている」という構造をきちんと理解しなくてはいけないんです。


これ言葉で書くのは簡単ですけど、感覚するのは極めて難しいというか非現実的だと思います。
ふつうですね、「あなたは本当は、ドラえもんの四次元ポケットそのものより変な存在なんですけど、信じます?」と言われて信じる人っているでしょうか?いないですよね。
ファンタジー小説じゃないんですよ?
ノーベル物理学賞をとれる科学者の主張よりも、こちらがほんとうの現実なんです。
幸か不幸か、ほんとうの現実を指すのにIQは必要ありません。
「どんなものとも関係性をもたない」というデフォルトの意識の特性に気づくことができます。
ですから、自分で実際に確かめる(それに決定的に遭遇する)までは詐欺師に騙されている気分になるものなんです。というか、そういう騙されている感覚になるほうが正常です。
それかフワフワした抽象的なものに感じるんです。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
PR
08 2025/09 10
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
HN:
Fiora & nobody
忍者ブログ [PR]