やめて!私のために争わないで!


一生に一度は言ってみたい台詞の上位に来る
「私」のために争わないで!は要点そのものでもあります。


「私(だと想像している像)のために争わないで!」
ということです。


普段はみんなが「私」のために争っているんです。
ですからこんな社会になりました。


社会を風刺できるのは「私」を仮定している間だけです。
「私」が現れたときだけ世界も社会も抵抗も現れます。


では「私」とは一体何なのでしょうか。
本当に単なる想像?単なる思考でしょうか?


純粋な主観の中に、「私だと想像されている像」はあるのかないのか。
ないのであれば、いつどんなタイミングで「その像は呼び出されている」のか。


なぜ呼び出されているのか。
それは「私は行為者として」「ここにいる」という感覚です。


ここにいるは正しいです。
「私は行為者として」という部分だけが唯一の問題です。



自由とは買い物のメモを忘れることを良しとする感覚


買い物のメモに書かれている内容も、買い物が成功するかどうかという結果意識も、より確実性のあるものとは勝負になりません。


より確実性のあるものとは存在です。


それが「いま」です。


「いまある」という言葉は「いまある」を指しているようで指せていません。
それはどんな言葉でも指せない「いまここにある存在」です。わたしたちのことです。


いまある、が傷つくでしょうか。
失われるでしょうか。一部分欠損するでしょうか。
欠損しません。


ですから、持ち運ぶ必要はありません。覚えておく必要はありません。


つねに、完全に、ここにあります。


ではこの完全性は、何らかの経験を邪魔したり、わずかでも抵抗したりするでしょうか。
どのような経験の全体性をも損ないません。
それが自由です。


わたしたちは、自由であり、いまなのです。


いまという経験の内容は限定されません。
内容は無限です。


そして、いま以外は存在しません。
宇宙の外側は存在しても、いまの外側は存在しないのです。


どのくらいオープンであるかは
どのくらい私を現さないかです。


それは同時にマインドの態度であり、
全体性への開き、抵抗の放棄です。


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