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さざなみがたっている湖面を想像します。
そこに一隻の小さなボートが浮かんでいます。
視点はそのボートの上にあります。


ボートはゆらゆら揺れていて、振動が感じられます。


ここに2種類の自覚の分岐が生まれます。
ボートの上に誰か乗っていると「感じる」か
誰も乗っていないと「感じる」かです。


もし誰も乗っていないと感じている場合は何が大きいかというと
「抵抗できる可能性がゼロになる」点が大きいです。


どんなさざなみも振動も、ボートの上でそれに抵抗できる何者かは存在しません。
そのさざなみ自体、その振動自体が、「わたし」とイコールになってしまいます。


誰か乗っていると感じている場合は
「どんなにわずかでも抵抗が可能だと感じる」ようになります。


そして分離します。
つまり揺らす側と揺らされる側は別のものだという分離です。


世界は誰のものでしょうか。
観客、そして聴衆は誰のものでしょうか。


わたしたちが苦労してまで「出会おう」としているものは
己の神聖な歓喜です。


己はわたしたちです。わたしたちの歓喜は、
デフォルトの視点に「隠されたまま」になっています。


デフォルトの視点が大事なのではありません。
デフォルトの視点に「隠されたまま」になっている神が大事なんです。


神は圧倒的な意識の「感覚」です。
この感覚なしには何もわかりません。
隠されたままではわかりません。


己が己に隠しているものがある可能性と真摯に向き合うことができるまで
魂は隠し事に成功します。


この人間化を試みているのは
ただ一人であり、この挑戦の計画も実行もただ一人が担っています。
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