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最も不安定に見えるものが実は最も安定している(ひとつを直覚させる)


すべて捨てる。すべて拒絶する。


一見乱暴に見えるものの、これをすると残るものは究極的に「ひとつ」しかないです。
これではない。私は誰?
これではない。私は誰?
これではない。私は誰?
これではない。私は誰?
これではない。私は誰?
……




千里眼と私(思考のボス)と思考(思考の子分)そして問題は


千里眼とはわたしたちの本当の姿のことです。
私(思考のボス)とはこの世を生きる過程で身につけた後天的な習慣です。
思考(思考の子分)は私という思考のボスが採用されているときだけ出てきます。ボスなしで活動する子分はいないです。


思考を観察するときに気をつけたほうがいいのは
思考の子分はどうでもよくて、ボスを捕まえなければ意味がないという一点です。


ボスのことは千里眼は見えてます。
わたしたちはデフォルト視点で既に「ボスを捕まえている」んです。
努力は一切不要です。


ですから唯一の問題は、


「千里眼=私(思考のボス)」


という勘違いにあります。




鏡と布


鏡は一つしかないんです。
これを70億あると考えると厄介事に巻き込まれます。


鏡はわたしだけが持っています。
その鏡に反射する神の光は、愛だけです。


もし愛を反射しないのなら、わたしの唯一の鏡が曇っているんです。


手に布をもち、唯一の鏡が愛を反映することのみに責任をもつ、これが霊性の道を歩む者です。
(とフィオラさんに叱られたお説教を載せました)


では布ってなんなんでしょうね。


ニサルガダッタは「私は在る」だとおっしゃっていました。
カルキさんは「五感解放」というかもしれません。
プンジャジなら「拒絶」(拒絶そのものまで拒絶する拒絶)。


人それぞれですが、自分の魂が選ぶ布を手にします。


そしてこう見ます。


今日24時間ありました。
この24時間で、神に対してどれほど愛を与えたか。
この24時間で、自分に対してどれほど愛を与えたか。
この24時間で、兄弟姉妹に対してどれほど愛を与えたか。


与えるとは動詞ではないです。
瞬間瞬間の神の光の反射です。


神の光には不完全さは欠片もありません。
こちらの反射光が不完全なんです。


神と自分と兄弟姉妹、誰に対して一番文句を言いましたか?


その怖れの根源に迫りましたか?


神との分離のヴェールに少しでも迫ることができましたか?


怖れを見つめる機会であったことを認めますか?


その機会に感謝できますか?


次にその機会が訪れることを神に祈りますか?


こうして一日一日プレゼント(神の贈り物)を紐解きます。


今日をありがとうございました。
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