見えないものを求めることがどんなにむずかしいことか、見えないもののために生きることがどんなにむずかしいことか、私たちにはわかっています。ですから、あなた方を元気づけるために贈り物を送るのです。あなた方を勇気づけるために、ときには、私のような「おばけ」まで、話し相手に送ったりします。ですから、歩きつづけてください。立ち止まらないでください。
歩いていくなかで、勇気が生まれ、信念が生まれ、思考を超えた体験が生まれます。そうすると、もうほかの誰が何を言おうともあなたは引き返せません。あなた方に対する私たちの愛は永遠に存在します。このことを人々は忘れがちなので、ここでもう一度強調したいと思います。あなたが何をしようとも、何を言おうとも、どんな行動をとろうとも、いっさい関係ありません。私たちの愛は決して途絶えることなく、私たちの愛は常に存在し、決してあなた方を見捨てることはありません。
それを確認したければ、自己の内に入り、自分の内に何か生きているものがあるかどうか、愛と呼ぶ感覚をもたらすものがあるかどうか、見てみてごらんなさい。失望することはありません。どうか他人を愛そうとしないでください。自分自身の愛で生き生きとしてください。そうすれば、「相手」がたくさん現れます。それをおぼえておいてください。あなたはあなたを愛し、私は私を愛する。そうすれば、私たちはお互いを愛することになります。おもしろいことに、これはみんな同じことなのです。
これを変えなくてはとか、こうならなくては、ということは全くありません。今のままの自分に温かく寄り添うだけでいいのです。このようなことに対して、科学は軽蔑するだけで、理解することはできません。あなたの気づきのパワーそのものが増加し、このエネルギーを感じることによって生まれるパワーが大きくふくれあがり、ついには、それが動きはじめ、やがては洪水のようにあふれだします。
いわゆる精神世界のグループには、残念ながら、「神なる光」や「神なる愛」を感じるには、修行しつづけなければならないと思いこむ傾向があります。心のなかで「大いなる愛」を動かしはじめるのに比べ、自分の肉体を変えるのはずっとむずかしいことです。どれだけの愛を感じるかは、肉体という道具の質とは関係ありません。
言い訳を作らないでください。あなたがしないための口実を、他人に作らせないでください。完全に愛に満ちるためにしなくてはならないことなどありません。そうなりたいという気持ちだけが必要なのです。そして、それがない人はいません。その気持ちがどれほど奥深く隠れていようとも、なくなってはいません。人間は、「大いなる光」への道は、「大いなる愛」を通してであることを生まれながらに知っています。人間は、何にもまして、神のふところという「ふるさと」へ帰りたいと思っています。「ふるさと」へ帰るのは愛のつばさに乗ってです。これ以上、先へのばさないでください。
「おばけ」バーソロミュー
本を読むことと愛のようなパワーを感じることは残念ながら完全に別物です。本を読むだけで魔法を実感できたらよいのですが、読むだけでは何年かかっても何も感じることはないだろうと私も経験から思います。ファンタジーの世界には魔法がありますが、私たちは「現実世界に魔法などない」と思って生きています。出勤する建物内に何人「魔法」が実在すると感じて生きている人がいるでしょうか。静寂の魔法や愛の魔法に呪文は必要ありません。わたしたちが知ることのできる真理は一つだけ、自分は誰なのか?です。今、ありのまま、この自分は誰なのか?この質問に答えるのは結局言葉ではないのです。
曖昧な説明、曖昧な描写、曖昧な基準…
だからどうすればいいのだ?
すぴりちゅあるの信徒?ああ、「ヤツラ」は具体性に欠ける。
何かを感じているフリをしているが、ヤツラの心は空虚に違いない…。
そうだよ!アタイもそう思う!空虚を恐れてるのはアンタも同じなのにさ!
たとえば今呼吸を「見る」ことはできますか。
呼吸を「する」必要はありません。それは自動的に起こっています。
時間は10分間のみ。
吸う息、吐く息を連続的に見続けます。
一瞬たりとも意識を反らさず、10分間見続けることができるでしょうか。
途中で意識が反れたり、連続的に見ているか少しでも自信が揺らいだらカウントを0に戻します。あなたは「連続的に」10分呼吸を見ることができますか?
どうしても難しかったら、ストップウォッチや時計を見続けながら呼吸を見続けてください。
それが一体どんな結果につながるというのか?
結果を気にせず、何かを得ようとせず、己の動機の底まで見透かしてしまう透明な目で、呼吸をただ見ていただけますか。嫌ですか、そうですか。
今日もありがとうございました。
HN:
Fiora & nobody