瞬き(まばたき)


まぶたを閉じる。その時一瞬暗闇になります。まぶたを開くとまた光がみえます。閉じると暗闇に、開くと光になります。


ノルディックスキーの選手が高速でコースを滑走するとき、瞬きの回数はすごく少ないです。ずっと周囲の状況に気づいていたいからです。普段そんなことしてたら疲れますよね。でも命のかかる状況では、人は暗闇の時間と回数を短くしたいと願います。


真剣で斬り合う二人も同じです。一瞬暗闇が混じった時に、相手の刃に両断される可能性が高いので、ずっと気づいていたい。その真剣さは、命のかかってない人の比ではないです。命のかかる状況で集中する人は、それ以外の人とは比較にならない集中力を自分の中から引き出します。


たとえば、相手の構えに関してAパターンとBパターンという二種類のパターン化が自分の記憶の中にあったとして、相手はどうやらここまでのところAパターンらしいと見抜いた場合、そこから先は気を抜くでしょうか。抜くわけありません。間違ってたら死ぬからです。


記憶よりも、いま。今のど真ん中の繰り返し。当たり前です。相手はいままで見せたことのないCパターンなど、あらゆる動きをとる可能性があります。無限の潜在的可能性があります。


これは、現代社会で命のかかる真剣試合をしていないわたしたちもまったく一緒です。他人だろうと環境だろうと、動きは読めません。どんな予測も、今この瞬間の気づきの重要性には追いつきません。


瞬きと気づきはある部分似ていて、ある部分本質的に違います。
ずっと瞬間に気づいていることは、わたしたち本来の姿です。努力とか何もいりません。気を抜いていたので、気づきは止まってしまいました。気づきが休んでいました。オフモードになってましたという人は、この世に一人もいないんです。


まぶたを閉じても、開いても、関係なく気づきは働いています。


ですが、その瞬間の一部分に焦点を合わせすぎた場合、他に気づかなくなるのは当然です。考え事してたので、話を聞いてませんでした。特に、見てるんだけど、見てない、ということがたくさんあります。それはノイズキャンセルのように、思考がこれは重要じゃないと判断することを見逃しやすくなるからです。


周囲を見渡した時、あらゆるものを等価で見ていない。判断で見ています。偏りとも言えます。車の急ブレーキの音は、無駄話より気を使います。何か大きな問題があるかも知れないからです。


この人は嫌いだ、という判断があると、無意識に顔を直視しなくなります。
あまりその人の顔を見たくないからです。


これが瞬きの回数によく似ています。


気づきは平等です。焦点は不平等です。それは選択です。
焦点が自我(記憶を今この瞬間に持ち込み発生する断続的な瞬間意識のこと)に合っていると、過去がわたしたちを支配します。


わたしたちは無限の潜在的可能性なのに、過去に引きづられ続けるんです。それは、無自覚の再生産です。これは本人が自覚しなければ意味がないんです。他人が気づいてもダメなんです。


瞬きを少なくして生きようとすることが、必要なのか?
不要です。瞬きが多いのは、怖れを抱えているからです。


見えないんじゃない。
見たくないんです。


だから、人生を選んでいるのは、本人だけなんです。
怖れて何が悪いんです。怖いものは、怖いんです。
怖れを知らない人なんて、どこにもいないんです。


怖れと戦うと自分を二つに砕いてしまいます。怖れを抱えている自分を目を開いてしっかり見つめ、それでも自分を宥すのかが問われているだけです。


一人で立ち上がれなかった時に、声をかけてくださった人たちは優しい人ばかりでした。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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