愛とはなにか



昨日の続きです。愛と善はまったく違います。愛はみずみずしく、善はパサパサです。
愛とは今です。善悪というのは単なる思考で同列です。善いことと悪いことは同列です。
愛とは今に完全に気づいていることです。



電車で席を譲るべき、べきでないという観念はたんなる思考で実体がありません。
その思考に基づいた行動は善悪の二極性を出ていません。


愛とは、殺意が湧き上がってきた時に、そこから
まったく目を反らさず気づき続けること。
愛の不在とは、私は善人なので、こんな気持ちが起きるはずがないとかなんとか言いながら目を反らすことです。



2002年のモスクワの劇場占拠事件を例に挙げれば、ロシア軍のチェチェンからの撤退を要求したあの体中に爆弾を巻きつけたテロリスト42名はどう扱う「べき」だったでしょうか。人質になった方々は恐怖をどうする「べき」ですか。べきなんて何の意味もないです。虚空は爆弾では傷つきません。だから人は不死です。ですが、肉体はバラバラになります。死の痛みも死ぬほど怖いです。もう二度とこの世では家族と会話できなくなることも信じがたい恐怖です。しかも虚空であることを忘れている人の恐怖は、移行の恐怖などという軽いものではなく、消滅の恐怖です。あの今がどれほど不条理か、神などどこにもいないと嘆くのは当たり前です。ですが、真実は変わりません。今に気づいていることそのものが愛です。あの時も全員の胸の中に、皇はいました。



源球”皇”に従うというのは、今この瞬間の真実に気づいていることです。そこから愛の呼びかけには常に応えるんです。気づいていなければ、常に選択肢は限定されてしまうんです。本来気づけるはずのことを素通りしてしまうからです。


六法全書には従わず、今に完全に気づいていながら、その瞬間の叡智(自分がそうしたいと思う自然な気持ち)にゆだねるならば後の結果は皇の責任です。星の軌道を司るのは皇だからです。フィオラはこの場合、自分にも兄弟姉妹にも最善の結果が出ると断言しました。今に完全に気づくということの注意点は、自分の内側の気持ちの揺れ動きに「まで」完全に気づいているということです。自分を騙す態度はダメです。そういう誤魔化しは皇に通じません。


怖れから目を反らそうとする人だけが、攻撃するんです。



見たくない。が攻撃に転化します


どんな人だろうと、自我が砦をかまえています。
だから、怖れを抱える人が弱いのではありません。怖れを裏口から捨てようとする人が弱いんです。


嫌でも全部見る!という態度の人は、結果的に優しい人になります。


ほんの一瞬のためらいも、気持ちの揺れ動きも、自分に正直に、全部見ることです。そしてそれを全部表にさらけ出す人、露出狂のごとく裸で公園を歩く人が一番周囲に安全です。まあ比喩ですけど。



愛は実在するエネルギーです。感じるための
条件はただ一つ自分が、この自分を許すことです。許していない人だけが、ハートチャクラの蓋が閉じています。今まで私の知るかぎりでは、そうです。いつも未来を求めて努力する人が陥りやすい盲点かも知れません。努力していいんです。この自分を許してからまた走ればいいんです。許してしまったら走れなくなると怖れるなら、その怖れを抱える自分を許せばいいんです。


だから最初に愛というのは、最初に、ありのままの自分を無条件に認め、許すことです。他人は関係ありません。他人の評価も関係ありません。他人が必要だと「思い込んだ」だけです。どんな弱点があろうと構わないんです。



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それが愛です。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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