思考観察2日目


どうも円形の穴が後頭部に開いている最初のあの感覚がしません。それよりずっと後頭部がぼーっとした感じなんです。
私は見ていることに気づいている存在から主体を発見しようとしているので、「眼球」がちょっと動くような感覚もしたりしなかったり。思考が起きた時点で気づくというより、忘れていて、はっと気づいたらもう思考に巻き込まれていることに気づく感じです。


それから思考が思考観察を始める前よりも猛烈に増えてきている気がします。
(意識化すれば増えますね)


思考に気づく。思考に気づいた存在に気づく。
これを繰り返す。繰り返す。言い訳しない。気づく。気づく。
(思考または無思考に気づいているのどちらかですね。同じ状態です)


しばらく思考観察していて、それを一瞬忘れると、言葉の渦が湧き上がってきます。
これがY氏のおっしゃっていた「思考の抵抗」だろうか?と思考してしまいます。
(思考の抵抗だろうか?という文言を端から聞いているなら観察できています。その端に意識を一回一回向けているなら状況は進展しています)


(思考)もうこの方法で大丈夫だから、ちょっと休憩しようか?
(思考)何も心配する必要はない。もうY氏の本が手元にあるし体験の主体に気づいた。他のことをしよう。
(思考)少しぐらい後回しにしても明日も思い出せば続けていることになる。
(明日は存在しないので、気づいたときに気づくで十分です。今この瞬間しかありません。その瞬間はどこにも動きません)


…はっ!?そういえば思考観察してたんだっけ…テレビ見ていていいのかな…?


いや、逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ…ぶつぶつぶつぶつ…
(逃げちゃダメだ…を意識的に聞いていれば観察できています。観察できていれば雑念は少なくなっていくはずです)


気づいたこともちょっとあります。
これ、スイッチのON・OFFみたいになる感覚があって、
体験の主体ONに切り替わる時は、意識の焦点が頭の「後ろ」になって。
OFF時は「前」というか目の前方に意識が移ってしまいますね。
(このあたりの肉体感覚は個人的な記録で汎用性は怪しいです)


剣術の教えで「残心(ざんしん)」と「捧心(ぼうしん)」について読んだことがあるのですが、
捧心の捧ぼうは「ささげる」という字で、捧心の意味は「心を対象物に向けること」です。対象物に意識が「着く」ことを意味します。


対して残心はそのままで心が残っている状態。「水面が無心に月の姿を写しているような状態」と言われています。古流から現代剣道に至るまでにこの残心の解釈は意見が別れるのですが、
「無心に写すがゆえに(対象物に)こだわらず、離れた状態」と唯心一刀流の伝書に記されています。


対象物がたとえ思考であろうとも
この捧心が現代人の病で、もしかしてY氏のおっしゃっていることは


残心の定着なのでは!?
(定義したがるのはトラップです)


と思考してました…明日また気長にやります。
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