5歳の時、「死」の概念を両親から教えられて3日3晩悩みました。
死んだら無になる。なんにも無くなる。わたしが死ぬ。その概念の強烈な違和感に戸惑いました。
子供だったので昼間は遊んでましたが、あまり私が悩んでいるので、当時の親友が
「でもさ~いまかんがえたってさ~♪ずいぶんさきのはなしだし~♪」
と暢気に言うのを聞いて
「なにいってるんだ!?ぼくたちしぬんだぞ!」と
それでも彼の言うとおり、私は結論を先延ばしにして遊びに行きました。


8歳から見てきた『それ』が一体何なのか、私は法悦状態の中(至高体験中)で深く探ろうと試みました。
小学4年生の夏休みの決意はこの夏休みが終わるまでにいつでも『それ』に戻れるようになろう!でした。『それ』の発生条件を探ろうとしたのです。試みは失敗しました。でもこれが後に大きな意味をもっていたことに気づきます。


12歳くらいに「無」と「有」を「超越」する『絶対的実在』があることは体験中に、さらに潜って理解しました。
私の必死な興味は『無限の歓喜』が何かに依存する単なる「状態」なのか、永遠のものなのかをどうしても知りたかったのです。


答えは永遠でした。それは誰に知られずとも、地球人全員の中に今息づいているのです。この侵食範囲は無限のため、逃れることはできません。置いてきぼりにされる人は最初からいません。道端の石ころのような無機物に見えるモノも。赤ん坊も、ホームレスも、最も悲しい目にあった人たちも、全員を救っています。死者も全員です。


そうか。死は、ないのか。
これが神と呼ばれる意味なのか。


本当に安心しました。


体験について話せば、両親は息子の頭がおかしくなったと悲しみます。
私はそれについて何も話さなくなっていました。
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