24日23時15分追記
久しぶりに神秘体験の入り口に入りました。揺らぎを感じることはあるんですが、今夜のは久しぶりでした。引き金はやっぱり音楽でした。


神は実在するんです。私たちのアプローチと予想が違うだけなんですね。
物質ではなくて、しいて言葉にどうしても翻訳するなら「感覚」なんですが、感覚はまるで「光」そのもので、人生全体の喜びを超越する「喜び」が直接的に魂を貫きます。


私たちの神に対する「予想」って、どこか「個人」としての自分の延長線上にしかないんですね。マイホーム買ったよ、とか、出世したよ、とか、愛する我が子が嬉しいこと言ってくれたとかね。


実はこの「個人から見る予想」というのが100%間違っています。
私たちは「個人」をこの地上に来るまで、知らなかったんです。おそらくですが、あの世でも魂としての個別性というのは、私たち地上人の予想している「個人主義」とは真逆です。まったく性質が違います。個人主義は閉じられている。秘密にできますよね。
でも、魂は、オーケストラなんです。喜びはみんなで、喜んでいることになるんです。


神秘体験に入る人、神の感覚を思い出す人って、私の性格から察するにちょっと「ユルい」感じの人なんです。
たぶんドイツ軍には入れません。


まだ炎には完全に戻れたことはありませんし、静寂も中途半端ですし、フィオラには感謝してますけれど、私はいつも出来の悪い生徒です。


でもね、神は、地上のすべてを、わたしたちの苦しみのすべてを、いまあまねく照らしています。確かです。


23時52分追記
意識が拡大しているうちに、「一歩も動かない」ことの真意を書いておきます。
ケン・ウィルバーの記事をね、もっと「徹底的に」実践するんです。
すべての動きは「立ち去ることにしかなりません」


いま、もうここに、顕れているから、
その顕れの「中に」満ちているものに浸るんです。
満ちているものは目では見えません。手では触れられません。耳では聴こえません。
浸る、んです。より純粋に瞬間(いま)にあります。意識の矢印に一見思えますが、浸るんです。今この瞬間の体験の全方向にお風呂に浸かるように、浸ります。やさしい気持ちで。
当たり前だと思っていた動きの中に、浸るんです。


個人からは見えません。それよりも友情や、思いやりや、心がつながった感覚がずっと入り口に近いです。人はわかりあえません。でも私たちは人じゃないです。神が人の演技をすることを決めて舞台に立った「演劇部員」にすぎません。


設定(台本)に苦労を盛り込んだ人は、喜びの中でそれを決めました。
これが演劇であり、真の創造劇の自由と、仲間との愛、喜びを感じ、それにより近づくことがわかっていたからです。


そう、胸の中の一杯のどんぶり、神の食物、アンブロシアです。
私たちの問題は、個人的な悩みの原因は、「容器が冷えた」それだけです。
冷えているから、つらく感じています。


温め直すだけなんです。今この瞬間に「満ちているもの」に浸るように味わうことで、アンブロシアは復活します。


25日1時43分追記
私たちって自分たち人間のことを一人二人三人って数えるじゃないですか。
単位は○○人ですよね。


これが、悟りとか覚醒と、通常の意識状態の違い・ギャップなんです。
単位が「何人」ではなくて「世界観(空間が自分自身を自覚している感覚のような感じ)」なんです。世界観はひとつだけです。複数ではなく、単数です。


人間単位では物事(あらゆる物事)を見ていないんですね。
あくまで「世界観」の方が「人」をみているんです。全員を一度に同時にみているんです。


オーケストラが公演に向けて一生懸命練習して、すばらしい出来の曲を奏でる場合は一人一人の音楽家の努力の視点ですよね。これが地上のオーケストラです。人間にも理解できます。個人の延長線上の視点に過ぎません。


真実の宇宙は違うんです。世界観が人をみているので、彼ら(人間)が努力するとか、しないとか、演奏にミスがあったとかどうでもいいんです。世界観自体が楽しい(最初から絶対的に楽しんでいる)んですね。


私たちが「忘れている」のは、この世界観であり、空間自体がもつ感覚なんです。
炎を無限の自由・無限の愛・無限の歓喜と表現してきましたけれど、事実この空間のもつ感覚「世界観」は、すべてを超越した自由・愛・喜びです。


この世界観側の感覚を思い出すと、個人対個人の喧嘩とか、個人的な視点のあらゆる葛藤、そういう個人のつまらなさ(幻想)は即消滅します。個人などもともとなかったことを思い出します。


どんな兄弟姉妹よりも確かに、わたしたちはひとつにがっちりスクラムを組んでいたことを直知しますし、それは圧倒的な幸福であり、愛に満ちた歓喜です。


なぜこれを書くかというと、「単位」の変遷が、問題点のすべてだからです。
・人間だと思い込んでいたけれど人間ではなかった。
・複数だと思い込んでいたけれど単数だった。
・虚空だとか、究極のリアリティだとか、ブラフマンだとか、神だとか、宗教上でマインドによって名づけられた「それ」は、「それ自体」が人間の個人化した視点とはまったく違う種類の予想できない「感覚」をもっていて、その感覚が「わたし」の本来の感覚だったと思い出すことになる。


たとえば
条件つきの愛が→無条件の愛になる時には
個人→世界観(空間)の視点への変遷がある。


個人にはどう努力しても無条件の愛はもてない。空間の感覚は一度思い出すまでは予想すらまったくできない。


個人のあらゆる「予想」は間違っている。
世界観の発現を邪魔している居候は個人(自我)の方なので、個人のマインドの活動を止めるだけでいい。この時に「どうやって止めるか」と個人に努力させてはいけない。


「何もしない」時、個人(自我)は一歩も「動けない」
「何もしない」とは、個人(自我)の動きもすべて、そのまま「みてるだけ」に放置すること。足さない引かないみてるだけ。


ゴールを設定し、ゴールに「移動するために」何もしないように「する」のではなくて。
どんな動機も、怖れも、何もかも、そのまま「みてるだけ」が何もしないということ。
見返りなし。目的なし。「みてるだけ」
※このとき愛のエネルギーに気づく方向から入ってももちろんいい。みてるだけの静寂でもいい。同時でもいい。遅かれ早かれ統合される。


世界観側からみると、自分という個人のことを「この肉体」と呼ぶようになる。転換が起きるまではその呼び方や感覚はありえない。予想すらできない。


「この肉体」に降りかかるあらゆる苦難を、苦難だと思っていない。むしろ喜んでいる。


意識が縮小した後のnobodyがまた読むと思うので書いておきます。意識が縮小すると、不思議なくらい綺麗さっぱり忘れていくんですよね。



いま難しく感じること
7月29日の記事を読み直して感じたことです)


何度も何度もフィオラから言われていて、いま一番難しく感じることが「一歩も動くな」です。動きながら、一歩も動くな。


その際にS接触に頼るな。意識の焦点の固定だとか特殊ルールは違う、と。
S接触をしている時の気持ちはどこか、思考が「これで大丈夫」と犯人逮捕を目撃している野次馬のフリをしながら、警察をやり過ごしているようなイメージが私の中にあるんです。思考の一部が一斉摘発を逃れているような不安があります。


何も「求めない」瞑想中は、音の中に無音が聞こえます。
動くことを求めない。指向しない。境界線はない。体験がある。


ですが日常はそうはいきません。
何かを「して」はじめて100点になる。そう思い込んでしまう。つまりいまは100点-αです。いつも満点ではない状況から満点を取るという動機に基づいて行動を起こす。この瞬間から逃げたがる。行動の基点で、逃げたがっている。誤解がもう既にある。


この瞬間自体を贈り物・100点と認めている心境から離れていってしまう。


「今この瞬間」というコンセプトは全員耳タコです。
でもそれはコンセプトじゃない。コンセプトを理解する理性では、理解できない。地図を読めても実際の「土地」に立てません。地図と土地は両立しないから。地図を読みはじめると、土地を見失います。


地図は実在しません。地図は土地の風景の一部です。
単体で成立するものではないです。でも、ぐっと顔を寄せて覗き込み、町の名前などを読み取ろうとしたりすると、「絵の中の絵に引き込まれるように」いまどこに立っているのかをあっという間に見失います。


土地には瞬間的に立てるんです。誰でも立てる。そこ以外に立ち位置は実際ないからです。
ところが、「立ち方」がまっすぐじゃないんですね。だからすぐ疲れます。日常では続けられなくなる。
個人的な癖がある。抱えている恐怖や、苛立ちや、人生で引きずってきた癖みたいなものが個人個人にあるのかもしれません。


円舞とフィオラが言うとき、それは舞いです。ダンスです。
ただ立っているだけではなくて。あるは連続体なのであり方になる。それは舞いです。


止観とフィオラが言うとき、観えてくるものを受け取っているということです。「見ようとする」ことではありません。何もしないのに「みえるもの」「きこえるもの」を受け取っているだけ。


分析はいくらやっても無駄なんです。心(マインド)の動きについていくと、忘却がやってきます。
私がエゴで分析すると単なる砂遊びになってしまいます。


謙虚なドアノブか、足の裏を押し返す反発力か、呼吸か、ノルウェイの森の主人公の最後の台詞みたいな


「いまぼくはどこにいるんだ?」


です。
フィオラに一言だけツッコミをお願いしてみました。



エラ呼吸したいとするでしょう?
肺の中を一度水で満たしますが、あなたはその過程にパニックにならずにいられますか?



この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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