「選択」には二重の意味がある
nobodyです。今までの書けなかった日を埋めました。
最初にこのテーマ「選択」。
vs ゴキブリ
謙虚なドアノブのこと
今この瞬間をどう見るかのテクニック
ニュートラルとはなにか
洞窟
いま目の前に二つ道があるとします。左の道と右の道です。
どちらに進むかを選ぶことは可能でしょうか?可能です。
マインドが選択できます。理性が選択できます。自我が選択できます。
自由に動く肉体(自分)があれば、選べることはたくさんあります。
スピリチュアル、霊性の道において、選択の意味は異なります。
左右の道の選択以前に、いま一歩も動かず、この場所、この瞬間に、
「幸福であることを選択できる」と主張します。さらに、この瞬間以外では、たとえば5秒後にはその選択が「不可能」であると主張します。
そんな選択があると主張するスピリチュアルは気でも狂っているのでしょうか?
一般常識的に言うと、単なるカルト信者のように見えます。
インチキ商品を売る詐欺師かもしれないし、教団が武装してテロ行為を起こすかもしれません。そういう偏見に混同される可能性があることは事実です。
ですがスピリチュアルの主張は異なります。金銭を要求しませんし、武装もしません。政治活動も行いませんし、徒党を組むこともありません。
スピリチュアルの言う「幸福の選択」とは、
いまこの瞬間に起こっていることから「逃げない」という選択です。
瞬間から逃げない。夢想に閉じこもらない。未知であることの恐怖からも逃げない。
体が逃げるのは自由だけれど、魂はいつも逃げず、ここにいる、ということです。
それが本当に幸福につながるの?
思い出した人間は、無条件の愛につつまれると主張します。
本人が試す以外の方法はありません。お金はかかりません。(本質的には)セミナーは不要です。
神の体験などどこにもなく、ふだんの日常の体験のなかに、神がみつかります。
神と呼ぶと誤解が生まれるのを避けるならば、既に絶対的に幸福であったことを思い出します。大ピンチでも、幸福でいられます。
今までの癖が、「不幸を呼ぶ癖」だったと後で気づきます。一度思い出してからも、頻繁に忘れます。
何かになりたい、とか。成果をあげたい、とか。
未来に理想の瞬間を想定(空想)して求めてしまう自我と、ありのままの瞬間にとどまる真我との綱引きが始まるんです。
この綱引きはトラップであり、綱を手放して、エゴが勝利を喜ぶ姿をただ見続けるときに、真我の勝利となります。
この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
権限と責任は対である。あなたの好きな言葉です。
顕れの中で人という顕れがもつ権限はなんだと思いますか?
それは無限の受容力です。あなたたちは許せる。
許せないというのはあなたの「意図」です。
なぜわざわざ人の姿をまとうのか、誤解しています。
テニスコートのように、相手の陣地に境界線を引き、責任を投影するのはあなたの意図なのです。
いま幸せか、いま受容しているか。
それはあなたの権限であり、責任です。
今日をありがとう。
HN:
Fiora & nobody