自由(虚空)ってのは炎が燃え上がる時の「空気」みたいなもんなんです。
無限だったら糊しろ無限なわけで、別の宇宙つくってもいいし、江戸時代に転生してもいいわけです。いまここが自由そのものである。それをどれだけ妨害するドンヨリとした無知・無明のエネルギーが上から降りてきてるかを個人個人は怖れず正体を明かさなくてはならない。
愛ってあるでしょう?人の本質は愛。それは間違いないんです。
その人の「あり方そのもの」が何やっても愛。
そしてスピリチュアルではその側面に随分スポットライトが当たるんだけれども
実際は違うんです。
実際は人の間と書いて「人間」ですよね。
愛は何やっても不変なので、実は人間の相互の動きは「歓喜」を生むんです。
非分離からその動きは瞬間瞬間「歓喜」になるんです。
それは人の個性への永遠の祝福なんですね。
愛と歓喜と自由は混ざって、炎になるんです。
悟り(さとり)を捨ててでも取りたいものがありますか?
悟りが大事だと誰かが言います。その定義を含め、それを信じるかは本人が決めることです。
他人の主張を妄信したというのは、人生の主人公の地位を投げ捨てることに他なりません。
全てを投げうって、自分が苦しいにもかかわらず、愛をとる人は別格です。
人間が違います。その人は外見上は凡人と同じように見えても、同じではありません。
悟りをひらいた(と自分で思った)人が、もしも愛をとらないのなら、その人も悟りとはなにか、宇宙の構造はどうなっているか、その底知れなさに畏敬の念を抱くことになると思います。
最近、自分で自分に「わざと」制限を与えるという文脈の記事を読みました。
私も同感です。
拡大した知覚で計画を練れる者が、わざわざ意味なく忘却するでしょうか。
それはないです。
神の計画は、人間の理性ではかれるような「美しさ」のものだと信じているなら、傲慢になりすぎています。
正しい答えはハートで感覚できるように創られていて、それは出会ったときに
なんの疑問もなく、なんの違和感もなく、
名前をつけられることなく、
それがそれだとわかります。
人間が創ったものとは、決定的に質が違うんですね。
私は答えに行き着いたのだろうか?
という疑問がほんのわずかでも出たら、それは違います。
フィオラが欄干(道徳・社会規範・常識など)という言葉を使いましたけれども、
子供でもわかります。愛は本質であって、かたちをなぞれるものではありません。
神が人に与えた、天与の魂です。
私たちはその従者です。
愛に触れて、それがそれだとわからない人はいません。
疑問が出るなら、善や偽善なんです。
言葉にまどわされず、
愛を感じられるかだけを基準にしたほうが間違いは少ないと私は思います。
一番信頼できる人は、外側にはいません。
本人の内側だけが、答えを知っています。
それは絶望や本当の苦しみと隣り合わせです。
わたしたちが苦しんでいるのは、実は愛を選ばないからなんですね。
被害者だという思い込みは、愛を見限ったことと同じなんです。
怖れていたいのか、非難していたいのか、愛を感じていたいのか、
選べと彼方から呼ばれています。
↑↑↑
これはここから先の陳謝の前フリです。
[nobody]
今日からですね、私目的を一個に絞ります。
一年間葛藤してたのは、炎を追うというnobodyの絶対目標に対して、日記にそれ以外のテーマを「混ぜる」かどうかだったんですね。これね、Y氏のブログに相互リンクした時に、Y氏の一言から始まったんです。
「こうやって細かく思考観察の記録をつけると、後で思考観察に挑戦する方に参考になるかもしれませんので楽しみです^^」
↑
これ。ここから私の「えええー人の目気にして書かなきゃいけないかなあー」という巨大な葛藤がスタートしました。リンクを外してもらっても、一年振り切れなかった。
だからあんなにくどくどと「人の目が気になる、人に遠慮してしまう」マインドが揺れ動いてたんです。
貫くにはあまりにもエゴイストっぽく見えるだろうと思って、嫌だったんです。わがままに見えるかもしれないと「抵抗」してたんですね。一般的なことも書く「いい人」だと思われたかったんです。変人だと自分で言いながら、どこか変人に見られたくなかったんですね^^;
これが無理でした。混ぜるだけの器と余裕がないと一年やって自分で感じました。
つまり、やっぱり変人なんですね。
フィオラの最初の忠告(命令)は正しかったんです。
一年間「思考観察」とか「意識意識」とか、一般的なテーマを並列的に扱いましたけれどここまでで終わりにします。
虚空、皇、星、円舞、止観なんかは炎のために書いているので、これまでどおりです。
そして何よりも、いただいたコメントには私にわかるかぎりでお返事しますけれど、個人的な執着に全力投球すると、本文の方にまとまりがなくなって、みなさん私が何言ってるか意味がわからなくなるかもしれません。申し訳ないんですがこんな変な漂流日記を許してください。
この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
無限だったら糊しろ無限なわけで、別の宇宙つくってもいいし、江戸時代に転生してもいいわけです。いまここが自由そのものである。それをどれだけ妨害するドンヨリとした無知・無明のエネルギーが上から降りてきてるかを個人個人は怖れず正体を明かさなくてはならない。
愛ってあるでしょう?人の本質は愛。それは間違いないんです。
その人の「あり方そのもの」が何やっても愛。
そしてスピリチュアルではその側面に随分スポットライトが当たるんだけれども
実際は違うんです。
実際は人の間と書いて「人間」ですよね。
愛は何やっても不変なので、実は人間の相互の動きは「歓喜」を生むんです。
非分離からその動きは瞬間瞬間「歓喜」になるんです。
それは人の個性への永遠の祝福なんですね。
愛と歓喜と自由は混ざって、炎になるんです。
悟り(さとり)を捨ててでも取りたいものがありますか?
悟りが大事だと誰かが言います。その定義を含め、それを信じるかは本人が決めることです。
他人の主張を妄信したというのは、人生の主人公の地位を投げ捨てることに他なりません。
全てを投げうって、自分が苦しいにもかかわらず、愛をとる人は別格です。
人間が違います。その人は外見上は凡人と同じように見えても、同じではありません。
悟りをひらいた(と自分で思った)人が、もしも愛をとらないのなら、その人も悟りとはなにか、宇宙の構造はどうなっているか、その底知れなさに畏敬の念を抱くことになると思います。
最近、自分で自分に「わざと」制限を与えるという文脈の記事を読みました。
私も同感です。
拡大した知覚で計画を練れる者が、わざわざ意味なく忘却するでしょうか。
それはないです。
神の計画は、人間の理性ではかれるような「美しさ」のものだと信じているなら、傲慢になりすぎています。
正しい答えはハートで感覚できるように創られていて、それは出会ったときに
なんの疑問もなく、なんの違和感もなく、
名前をつけられることなく、
それがそれだとわかります。
人間が創ったものとは、決定的に質が違うんですね。
私は答えに行き着いたのだろうか?
という疑問がほんのわずかでも出たら、それは違います。
フィオラが欄干(道徳・社会規範・常識など)という言葉を使いましたけれども、
子供でもわかります。愛は本質であって、かたちをなぞれるものではありません。
神が人に与えた、天与の魂です。
私たちはその従者です。
愛に触れて、それがそれだとわからない人はいません。
疑問が出るなら、善や偽善なんです。
言葉にまどわされず、
愛を感じられるかだけを基準にしたほうが間違いは少ないと私は思います。
一番信頼できる人は、外側にはいません。
本人の内側だけが、答えを知っています。
それは絶望や本当の苦しみと隣り合わせです。
わたしたちが苦しんでいるのは、実は愛を選ばないからなんですね。
被害者だという思い込みは、愛を見限ったことと同じなんです。
怖れていたいのか、非難していたいのか、愛を感じていたいのか、
選べと彼方から呼ばれています。
↑↑↑
これはここから先の陳謝の前フリです。
[nobody]
今日からですね、私目的を一個に絞ります。
一年間葛藤してたのは、炎を追うというnobodyの絶対目標に対して、日記にそれ以外のテーマを「混ぜる」かどうかだったんですね。これね、Y氏のブログに相互リンクした時に、Y氏の一言から始まったんです。
「こうやって細かく思考観察の記録をつけると、後で思考観察に挑戦する方に参考になるかもしれませんので楽しみです^^」
↑
これ。ここから私の「えええー人の目気にして書かなきゃいけないかなあー」という巨大な葛藤がスタートしました。リンクを外してもらっても、一年振り切れなかった。
だからあんなにくどくどと「人の目が気になる、人に遠慮してしまう」マインドが揺れ動いてたんです。
貫くにはあまりにもエゴイストっぽく見えるだろうと思って、嫌だったんです。わがままに見えるかもしれないと「抵抗」してたんですね。一般的なことも書く「いい人」だと思われたかったんです。変人だと自分で言いながら、どこか変人に見られたくなかったんですね^^;
これが無理でした。混ぜるだけの器と余裕がないと一年やって自分で感じました。
つまり、やっぱり変人なんですね。
フィオラの最初の忠告(命令)は正しかったんです。
一年間「思考観察」とか「意識意識」とか、一般的なテーマを並列的に扱いましたけれどここまでで終わりにします。
虚空、皇、星、円舞、止観なんかは炎のために書いているので、これまでどおりです。
そして何よりも、いただいたコメントには私にわかるかぎりでお返事しますけれど、個人的な執着に全力投球すると、本文の方にまとまりがなくなって、みなさん私が何言ってるか意味がわからなくなるかもしれません。申し訳ないんですがこんな変な漂流日記を許してください。
この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
HN:
Fiora & nobody