「私」という感覚を「いつ」維持できていますか? フィオラ


今感じているものから、逃げようとしているときです。
ふふふふ(←なぜか笑った)


「カラクリ」を解き明かそう nobody


瞬間の意識状態が両立しないこともフィオラの入れ知恵です。


こういうカラクリだと思っていることがあります。
つまりわたしたち虚空は「思ったことを瞬間的に創造する力」があり、それは意識状態にも適用されるんです。たぶん。


何かが悪い!と言っている人は「何かが悪い!」と感じたいのだなと虚空に判定されます。
愛したい!と言っている人は「愛したい!」と感じたいのだなと虚空に判定されます。
被害者だ!と言っている人は「被害者だ!」以下同文。
全て手放してありのままにという人は今この瞬間の「本当の姿」に気づき始めます。



今この瞬間に与えられているものは「ひとつ」です。
どんな人も同じ。それは無限の潜在的可能性、自由です。
それをどう見て、どう受け取るか、を通じてわたしたちは創造している。
どう与えるかではないんです。どう与えるかはもっと二次的なことで、行動や行為として一段低い位置にあり、粗いエネルギーかもしれません。


贈り物に「アラを探す、アラがあると解釈する」かどうかは大きな分岐点です。
その人にはアラが見えますし、それは真実になります。
思ったとおりに創造できるからです。
贈り物に「愛を探す、愛があると解釈する」かどうかも大きな分岐点です。
その人には以下同文。


神の実在を確信している人には神は日常で体感できるくらいまで顔なじみの存在になり、
疑っている人には少し遠くなります。本人の思い込みによって。
みえないものの実在の証拠は求めれば本人に直接与えられるのですが、疑っている人は証拠を正体不明のものに求めようとはまずしないでしょう。


私も疑いました。相当強く疑いました。
自分が体験していることの中で「絶対」という確信のあることは別ですが、
方向性すらわからないものは疑い続けました。


で、なんとなく思うようになったのは、人は思っているよりも、
完全にオーダーメイドで意識状態を創っているのかもしれないということです。


フィオラにぶっ飛ばされるまで「渇きと涙」の方向性は検討したことが恥ずかしながら人生で今までなかったんです。



すべての兄弟姉妹が光の存在であり、たとえ表面的にどう見えようとも、
彼らが誕生してから負ってきた傷や苦しみ、神との分離錯覚による絶望的な寂しさ、それに対して私は今まで「大丈夫」という光のエールを魂から発信したことが果たしてあったのか、本気で沈黙が訪れました。


いいえ、ありませんでした。
炎の啓示を受けても、虚空の啓示を受けても、私はそれを他人の(魂)のために、励ますために用いたことは一度もありませんでした。


それより肉眼で見えることの「愛の不在」に「抵抗」し始めたんです。分離感を強化しながら。抵抗するためには「相手」と「自分」の実在を強く信じることが必要で、分離感の強化に直結していきます。


善悪という観念により強く支配され、自分もそのルールの中に生きようとしました。
私は裁判長の席に座り、炎と真逆の「裁く心」に捕らわれ続けたのです。


そして本気で叫びました。「炎はどこ!?」


どこも何も、私が取り続けたのは「無知・無明」です。自分で選択したんです。


久しぶりにテレビ番組を見ました。驚いたんです。
おもしろい。前はあんなにつまらなかったものが、おもしろい。
内容がじゃなくて、どんな人のどんなあり方も、おもしろいんです。


愛は愛をみようとする人にあらわれます。
喜びは喜びをみようとする人にあらわれます。
自由は自由をみようとする人にあらわれます。


誤解していました。ひとつです。
ふたつあるなら、無知・無明から逃れて、イデアに駆け込めばいい。
ひとつなら、
無知・無明を知り尽くさずして、イデアが復活するものですか。



この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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