想念というかたちのエネルギーの散逸


ヘビースモーカーが、禁煙中だとする。
彼はなるべく早く眠りたい。なぜなら寝ている間は禁断症状もないからだ。
なんらかの激痛に悩まされている人も同じ。
寝ている間は痛覚さえ感じなくなる。


熟睡状態では、想念は生まれない。
肉体も、世界も、消失している。


お腹がすくのはいつだろうか。
それは体があるときだ。世界があるときだ。想念があるときだ。


体と世界と想念は継続体だろうか?いや違う。熟睡状態で消失するから断続している。


では、通常わたしたちが目覚めて活動する日中に、
肉体と、世界と、想念に意識を集中しない「状態」がありうるのを理性で納得できるだろうか。


あるのだ。
めざめているが、熟睡状態と同じ状態がある。


なんらかの激痛に悩まされている人がいるとする。
彼は感覚器官を通じて痛覚をもっているが同時に、熟睡状態でも継続していた「常にある意識」ももっている。


常にある意識は継続していて、肉体は継続していない。
肉体があるという想念も継続していない。
肉体に付随するあらゆる欲望や禁断症状も継続していない。


いま、意識の焦点は、
肉体か、世界か、想念か、


または、みえない、顕現しない、意識に向かっているだろうか。
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無題
こんばんは。
最近、今に意識的であることが、日常で気づきを保てるということが分かってきました。
ですが、意識的であると頭が痛くなってしまいます。思考は全くない状態なので、ステートオブプレゼンスであるとは思うのですが、エネルギーが頭にいきすぎているのを感じます。つい先日これに気がついたので、慣れてきたら痛くなくなるのかなとも思っているのですが。こういうこともあるのでしょうか?
やま 2014/06/04(Wed)20:49:55 編集
Re:無題
やまさん、こんばんは。


>こんばんは。
>最近、今に意識的であることが、日常で気づきを保てるということが分かってきました。


大納得です。今に意識的であることが気づきを保てる(意識している)状態に等しいということですね。


>ですが、意識的であると頭が痛くなってしまいます。思考は全くない状態なので、ステートオブプレゼンスであるとは思うのですが、エネルギーが頭にいきすぎているのを感じます。つい先日これに気がついたので、慣れてきたら痛くなくなるのかなとも思っているのですが。こういうこともあるのでしょうか?


私も同じように「物理的な」頭痛がひどかったことがあります。
意識の焦点を集中しすぎての(脳の?)筋肉痛のような感じでした。誰もが陥るわけではありませんが、十分ありうることだと思います。


意識の焦点をコントロールすることの副作用として頭痛が今現在起こっていても、どうしても集中はこのまま続ける必要があります。というのは、「思考が起こっていないことの確認」と「思考の流れ(通過)の全体的なプロセスを俯瞰する態度」を続けることが必須だからです。できるだけ余計な力は抜いたほうがいいとは思いますが、我慢できるなら痛みはそのままでもこのまま「思考はまったくない」と断言できる状態を続けたほうがいいと思います。


経験上、頭痛が始まってしまうと意識性は無意識に低下していくように思います。あえて我慢の時ではないでしょうか。私は定着時に5日間ぐらいけっこうな頭痛が続いていました。大事なことは、やまさんはその頭痛でも痛覚でも肉体でもないということです。
【2014/06/04 22:13】
無題
ご回答ありがとうございます。
なるほど。
定着してからも5日間も頭痛があったのですか。定着は相当なエネルギーを頭にいれることになるのですね。
しかし、最初の内はよかったのですが、だんだんとノーマインドに入る感覚がなくなってきました。エネルギーに慣れてきたのかもしれません。以前なら意識的であろうと思えばすぐ入れたのですが。。。
なかなか一筋縄ではいかにようです。
やま 2014/06/05(Thu)22:20:56 編集
Re:無題
やまさん、とんでもないです。
何かあればいつでもおっしゃってください。


>ご回答ありがとうございます。
>なるほど。
>定着してからも5日間も頭痛があったのですか。定着は相当なエネルギーを頭にいれることになるのですね。


というよりも、私の場合の原因は脳内の松果体に意識の焦点を集中させていたため、定着時にその焦点を移動させる「回数が激増」したからかもしれません。その痛みは力みとともに、薄れていきました。


>しかし、最初の内はよかったのですが、だんだんとノーマインドに入る感覚がなくなってきました。エネルギーに慣れてきたのかもしれません。以前なら意識的であろうと思えばすぐ入れたのですが。。。
>なかなか一筋縄ではいかないようです。


「特定の感覚」を探すとそうなりがちですよね。この時点で言えることは「思考していない」ことがご自分の意識のなかで0.1秒でも確認できるならOKです。
「今に意識的であること」を特定の感覚と結びつけることなく、ありのまま、そのままに受け取ります。
視覚・聴覚・触覚、そのまま受け取る。
そうすれば「思考という不純物」がないことがなんとなくわかります。
五感に素直にそのまま受け取る=不純物減っていく


そうしてから日常に戻ります。次に「うん?あれ?」と感じるまでそのままいきます。
違和感を感じた瞬間に立ち止まり「思考という不純物が混じっていないことを確認」し、日常に戻ります。この繰り返しですね。
【2014/06/06 05:53】
無題
なるほどなるほど。
特定の感覚をつかもうとしない方がいいのですね。今まで感覚をつかんでいることで、保っているという自覚がもてていたのでその方が安心していました。
ただ意識的であるだけを試してみます。
ありがとうございました。
それと、余談ですが最近素敵な歌を見つけました。ご存知かもしれませんが、山根麻似さんの祈りの唄です。今度近所でコンサートをするそうで、調べてみると瞑想を日本で初めて広めた人の一人だそうで、悟りのエネルギーを歌とともに広めているみたいです。悟った歌手って、すごい時代だなぁと思いました。意識的に音楽をきくと、より心に染みいるように感じます。
コンサートで共鳴してきます^^
やま 2014/06/06(Fri)22:05:45 編集
Re:無題
やまさん、こんにちは。コメントありがとうございます。


>なるほどなるほど。
>特定の感覚をつかもうとしない方がいいのですね。今まで感覚をつかんでいることで、保っているという自覚がもてていたのでその方が安心していました。
>ただ意識的であるだけを試してみます。
>ありがとうございました。


真我は「特定の条件によって」「保たれる」ことがないものなんです。
条件がまったくない。だから「常にある」という継続が唯一満たせるものであり、それがわたしたちそのものです。


ではなぜわざわざ努力しているのか?分離の幻影を取り除くためです。真我が失われているのではなく、わたしたちが幻影に振り回されているからです。


その中で「条件を信奉している者」は誰であり、何でしょうか。
それは「私」であり、「思考」でしょうか。
だから「思考がまったくない」状態を保ち、「私」の源へと遡ります。
いまどんな感覚をもたれていてもOKです。なぜならそれらの全てが、やまさんの想い自体が真我だからです。思考を生んでいるのも、思考自体も真我です。


感覚や条件を拠り所にするのではなく、「感覚や条件を拠り所にしようとする者が誰」なのか探します。それは人間でしょうか。今までどおりの自己像でしょうか。


>それと、余談ですが最近素敵な歌を見つけました。ご存知かもしれませんが、山根麻似さんの祈りの唄です。


存知あげながったので、早速拝聴しました^^
素敵な歌ですね。


今度近所でコンサートをするそうで、調べてみると瞑想を日本で初めて広めた人の一人だそうで、悟りのエネルギーを歌とともに広めているみたいです。悟った歌手って、すごい時代だなぁと思いました。


瞑想を日本で初めて広めたお一人。まったく存知あげませんでした。
山根さんの歌には確かに不思議な静寂があるように感じました。


意識的に音楽をきくと、より心に染みいるように感じます。
>コンサートで共鳴してきます^^


音楽は霊性の道で極めて重要な役割を果たしているとわたしは感じています。
ぜひ楽しまれてきてくださいね^^
【2014/06/07 07:43】
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