光の合流ルート6日目


一なるもの。フィオラは死神か?の質問に割り込んでもそう答えました。
そういえば、この世界は「ひとつ」であってそれ以外何もありませんでした。
彼女も私だということです。そして。

統合なさい
理性で理解できることではありません。本当に統合してみるしかありません。

今まで受けた教えは大きく5つ。

・第一の扉(愛の翼)
・陰との調和(月光)
・窓(意識の焦点)
・竜巻の道(垂直の道)
・統合(一なるもの)

なぜフィオラに新しい質問をしないのかというと、統合の意味が体感できなくては先に進めないと思うからです。

愛の翼を羽ばたかせたまま、まず残り11の扉を開いていきます。
途中まで登ってみないと、山の全貌すらわかりません。

そこで道しるべとなるのが陰との調和です。

日々を生きる上で、胸にときどきがちらつきます。愛とは違う別種の感覚。
恐怖、怒り、恨み、悲しみ、ありとあらゆる陰の感覚
これを胸の奥で「発生するその瞬間に」迎え入れ吟味します。
感覚や音質や触感まで味わいます。
外部の原因だと思いこんだものに陰を投影する行動を全てストップします。
怒りを表現する必要も、怖れを表現する必要もありません。
怖れを感じたら怖れに留まります。
そしてそれらの「陰」と「愛」が同時に共存できるか検証します。

恐怖と愛が同時にある。
悲しみと愛が同時にある。
怒りと愛が同時にある。
不安と愛が同時にある。
陰を吟味した上で、愛の炎に溶かします。
どっちが強いか検証していきます。
バランスを瞬間瞬間とっていきます。

窓を愛に定めます。オンオフが感覚としてわかりやすいからです。
もちろん思考が発生すれば松果体にも同時に入ります。
陰が私を追うのではなく、今度は私が陰を待ちます。
登山は今始まったばかりです。
そして山頂は今ここに私の内側から拡がっています。

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nobodyさん、こんにちは。

最近のnobodyさんの記事、興味深く読ませていただいています。

「意識の中心」という表現は、私もそうであり、nobodyさんもそうであるように、ある時期まではとっても伝わりやすい表現であるのかもしれませんね。

私の場合は、思考からはなれた意識が定着し、その意識とともに生きる時間が長く経過するにしたがって、この意識は肉体に束縛されておらず、それは物理的宇宙の背後にある秩序(力? 法則?)であると感じるようになっていきました。

だからこそ、それは場所を持たず、けれどもすべてにあまねく存在していると感じ、それゆえ、偏在と感じるよ
うになりました。

そしてこの偏在こそが、愛であると感じています。

したがって、私たちはすべて、命のあるものも、ないものも、目に見えるものも、見えないものもみな、愛のあらわれであると感じています。

そしてこの感覚にゆだね、感じるままに生きることで、私たちは自分のもっている生まれながらの能力(役割)が表現されていくのだと感じています。

ですから私たちはやはり、愛の表現なのです。

私の場合は、身体感覚にうといためか、nobodyさんがおっしゃられているような胸の炎のような感覚にはうといですが、おそらく、愛の表現として、人はみなこれに開いていくことでそれぞれの能力、役割を存分に達成していくのではないかと思います。

フィオラさんの提唱する「今ありのままの自分を愛している胸のチャクラ」の奥の「愛のエネルギーの動き」を感じる方法は、「今ありのままの自分を愛する」方法として、すぐれているのではないかと思います。

ほかの人の体験談もお聞きしたいものです。



取るように「二つの奥に同時に入る」ことを反復訓練しています。このまま続けるつもりなのですが、現時点でやまがみさんが何か思われることを教えていただけないでしょうか?
やまがみてるお URL 2013/02/12(Tue)23:15:16 編集
やまがみさん^^
お忙しい中、お手間をかけます^^
やまがみさんこんばんは^^

>nobodyさん、こんにちは。
>
>最近のnobodyさんの記事、興味深く読ませていただいています。
>
>「意識の中心」という表現は、私もそうであり、nobodyさんもそうであるように、ある時期まではとっても伝わりやすい表現であるのかもしれませんね。

はい、ある時期までは、きっとそうです。肉体の奥に向かう意識の焦点の移動を繰り返すうちに、
「奥」、現れの世界ではない「奥」の実在を掴みはじめます^^

>私の場合は、思考からはなれた意識が定着し、その意識とともに生きる時間が長く経過するにしたがって、この意識は肉体に束縛されておらず、それは物理的宇宙の背後にある秩序(力? 法則?)であると感じるようになっていきました。
>
>だからこそ、それは場所を持たず、けれどもすべてにあまねく存在していると感じ、それゆえ、遍在と感じるよ
>うになりました。
>
>そしてこの遍在こそが、愛であると感じています。
>
>したがって、私たちはすべて、命のあるものも、ないものも、目に見えるものも、見えないものもみな、愛のあらわれであると感じています。
>
>そしてこの感覚にゆだね、感じるままに生きることで、私たちは自分のもっている生まれながらの能力(役割)が表現されていくのだと感じています。
>
>ですから私たちはやはり、愛の表現なのです。

ありがとうございますやまがみさん^^やはり、そうでしたか。
やまがみさんのおっしゃる「遍在する静寂」は私たちの物質世界の「裏」であり「背景」であり、本当の私たちです。やまがみさんは今「透明な光」から完全に「ゆだねて」生きていらっしゃるのだと思います。

誰しも透明な光なので、みな最初から完全覚醒者ではあるのですが、日常の動に巻き込まれず、その遍在する透明な光から生きるようになるまではある意味反復訓練です。物心ついて以来、誤った目の使い方や耳の使い方に慣れすぎました。目的地は結局同じです。しかも移動しようとすると気づけない同じ場所ですね。

>私の場合は、身体感覚にうといためか、nobodyさんがおっしゃられているような胸の炎のような感覚にはうといですが、おそらく、愛の表現として、人はみなこれに開いていくことでそれぞれの能力、役割を存分に達成していくのではないかと思います。

感覚の仕方は個人差があるのだと思います。やまがみさんは既に「遍在」から生きていらっしゃるのでもうそちらにシフトしている、包まれていることに全身気づかれているのだと思います。私の場合は時間が浅いため、未だ脳と胸と肩のみなのです。

>フィオラさんの提唱する「今ありのままの自分を愛している胸のチャクラ」の奥の「愛のエネルギーの動き」を感じる方法は、「今ありのままの自分を愛する」方法として、すぐれているのではないかと思います。

ありがとうございます。やまがみさんの「思考に気づいている視点・無抵抗の地点」つまり「遍在の静寂」に気づき続けた上で、そこに愛などの拡張するエネルギーの「動き」もできるかぎり感じていきます。またご報告とご質問をさせてください^^

>ほかの人の体験談もお聞きしたいものです。

はい^^やまがみさんのブログ内でも気づき方が多様で、私も皆さんの体験談をお聞きしたいです^^
ありがとうございました。
【2013/02/12 23:35】
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Fiora & nobody