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光の合流ルート5日目


(13時50分追記。
やって来ては去る「思考」と「感情」の世界で、心から満足することなど私は今までありませんでした。ハリウッド映画のように無数の物語は毎日描かれていて鑑賞できるのに、そのどれも虚しさが付きまとうんです。


楽しい物語はあります。悲しい物語もあります。
私にはそのどちらもおもしろくないんです。違和感があります。
あまりにおもしろくなかったので、20歳の誕生日の朝に坂本龍馬の墓前で誓いました。
「おもしろくなるまで何があっても決して諦めないと誓います」


この態度がかえってよくなかったのか葛藤は続き。
逃げ回っていた自分の陰がとうとう私に追いつきました。
ある晩今までで最恐の悪夢を見ました。
「自分が自分から逃げ回りもう追いつかれる寸前」という夢で、今までで最恐でした。
どんな怪物よりも貞子よりも自分に追いつかれるのが怖いのです。絶叫しました。


その後夢に出てきたのが
「一なるもの」と名乗る美しい女性の姿の変な霊。フィオラです。
しかも私はもうすぐ死ぬ。遺言のように生きなさい。と言い出します。


(11時22分追記。やまがみさんが定着した当時「意識の中心」を「脳内の中心」に感じ、「ゼロ視点」と呼んでいた頃の記事を再読していました。
皆さんの中にも脳内の中心「松果体」に意識の焦点を移動させ、そこに「接触」しながら思考観察をすることが自然に感じられる方はどのくらいいるでしょうか。現在のやまがみさんは定着から気づきを繰り返し「遍在」を体験するように意識がシフトしているのでこの「意識の中心」「ゼロ視点」という言葉を使用されなくなっていますが、定着前の過渡期において、これが何かのヒントになる方もやはり多いような気もします)


フィオラあなたは何者か?


一(いつ)なるもの
問うのではなく 統合なさい



この答えの意味が曖昧で何も答えていない、そう思っていました。
どういう心境の変化かこれが本当の正解かもしれないと思いはじめました。


わたしは○○です。と言われて私はわかったつもりになる。
でも名前をつけた時点で「現実」から一歩離れます。何もわかっていない。


満足も、していない。


分離できない空を四角く切り取って私(自我)は安心しようとする安心材料にしようとする。
生も死もそうですよね。
実体は生まれてもいない。死んでもいない。私はある。
そして私はあるが去り「ただ体験している」不二となります。これが「炎」です。


心の底から、満足です。今。もう何も要らない。不死の約束すら、要らない。
炎だからです。



この瞬間、私のはどうなっているのか?
この瞬間、私のはどうなっているのか?
そもそも「私の?」そうでしょうか?「この瞬間?」そうでしょうか?


あるのは瞬間。しかも時間の長さで切り取れない今この時この場所。
いつも「物差し」で何かをはかろうとするから無限の大きさに気づかないだけ?
何が無限か?今です。愛です。喜びです。自由です。
私たちはきっと「今」の本当の力をまったくといっていいほど引き出せていないだけなんです。


分離の錯覚で「わかったつもり」を「今」に上書きしてしまっているから。
この分離の錯覚から意識の焦点「窓」を「今」外せるかどうか、です。



やまがみさんの導きで静寂に戻るよう反復訓練し、今フィオラの導きで愛の翼を感じるようになってから特に思うのが肉体の「」にはこの分離観念の常識ではかられる現実とは別の現実が存在するということです。今この瞬間に別の現実が並行世界として脈打っている


階層が異なる。でも実在する現実。
一つ目が思考に巻き込まれた時点または思考発生に気づいた瞬間の選択肢「奥に入る」です。
これは私の場合は、脳内の松果体に意識の焦点をあてた上で、通過しようとしている思考をそのまま観察することができます。よって今までの過去のパターンを打ち破ることに成功します。
(松果体に関しては、チャクラのバランスにより情報の受信方法に個人差があるため重視する必要はありません)


もう一つが「」です。
この場合の「」はどこに入るのか?
の「」です。奥に入る感覚に慣れたら言葉やマントラなど不要だと思います。


私の場合は「」脳の「」と胸の「」に同時に入ることができないか模索しています。
同時に入り「呼気」と共に「愛の拡張の動き」を感じとるようにします。
重要なのは方法論ではありません。これは指差しにすぎず、大事なのは「それ」だけです。
今、本当に心から私たちを満足させる「それ」だけです。


バーソロミューはこう例えていました。
私たちの胸の中に一杯のドンブリがあります。そこにスープが入ってます。
このスープはアンブロシア(神の食物)であり、覚醒者とはこれが熱々にあったまっているのでいつも満足なのです、と。さらにスープの「いい匂い」もします。
愛は花の香りやお香の香りなど物理的に香りがすることも見事にたとえていました)


悟りを求めている私たちの場合はスープが「冷めている」ただそれだけです、と。
だから愛を外部に求めて苦悩する結果になります。
自分の内側のスープをあっためればいい、と。


フィオラはスープが冷めているのは私の「」のせいだと言いました。
ありのままの今の自分よりいつも未来を求めていた。過去に縛りつけていた。陰から逃亡しようとしていた。必死に自分から逃げていた。
思考の虚偽に気づくことや、今ありのままの自分に寄り添うことを見逃していました。


「思考」と「感情」の階層はおそらく同じですが、受信する肉体の場所はそれぞれ異なります。
脳と胸が約30センチ離れているので、この30センチを「」の中に含めて、静寂に愛の翼」を連携させることが可能か希望をもっています。


フィオラ、静寂と愛を同時に感じるのは自然ですか?
Fiora
そうです


ここが重要です。
無は動を生み出すことで「体験している」を可能にしました。
愛は無の中に最初から内在していたものですが、源の球体を生み出した時点で、宇宙の中心である母なる球体の主要なエネルギー体験の一つとなったのが「無限の愛」です。


私たちは源の球体の無限の愛と常にリンクしています。それが胸の奥にある扉です。
はっきり言うと私たち動く光そのものが「愛」です。どんな「人間のあり方」も「愛」というカラクリまで待ち受けています。(ただし人間界の分離錯覚に基づいて意図的に誰かを傷つけようとする想念と行動をどうか選ばないでいただきたいことを個人的に申し添えます)


静寂の光に戻ることだけが目的なのではなく、愛の炎を体験することも目的なのです。
そう、私は思います。


今これを書いている間も、陽炎のように背中から愛の翼がゆらめいているのを感じています。
フィオラに接触せずとも暖かいです
今この瞬間に思考がひっかかるなら脳の奥に入ります。
「呼気」と拡張するエネルギー「愛の翼」が連携します。特に愛の動きを感じ取ることに連携します。
愛はコントロール不可能ですが消失せず、窓はコントロール可能です。
「今」「奥」を「窓」にするよう努めています。脳の奥と胸の奥です。
もちろん「炎」への登山の入り口にすぎません。入り口を今踏みしめています。

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