見ている沈黙 その2
ちんもくっへみてるんすかねー。
手で口を塞いでも思考はダダ漏れです。そのとき
思考=わたし=顔パスというセキュリティ崩壊が起きています。
思考があなただって最初に誰が言ったんでしょう。
誰も言ってないです。だからそれはあなた(自我)の下した勝手な解釈です。
思考と自分の同一視です。
本当に見ているなら距離が生まれますから、見ていることすら気づかないようになっているのがこの場合の同一視です。見ていることを省略してしまうほどの顔パス具合。
何に対してセキュリティパスを発行しているのか。
肉体・思考・感情とまったくのイコールであるという思考の「私」です。
この「私」へのセキュリティ崩壊さえなければ、苦しみなどありません。
先入観をもたずに、ただ聞きます。
私は誰?
予想外の答えが。
ドヤァ。
ドヤ顔には2種類あるのです。
一つは「私」+「ドヤ」
もう一つが「ドヤ」です。
ただの「ドヤ」は(私)がいません。
悟りを啓いたとか変なことをノタマウ人は「ドヤ」です。
ドヤはドヤでも周囲に開かれたドヤ。バリアフリーなドヤ。
ただのドヤなのです。
今のわたしとあなたとみんなとせかいを完璧に認めている。どっちかって言うと好きである。
今この瞬間そのものが、このまんまで好き。
ただある人はやさしいです。
なんの差別もなく、ともにあります。
バリアフリーのバリアとは思考のバリアだったんです。
本当のあなたとは、いま現れる(顕現する)障害のすべてに宥しと拡張をもたらす純粋な目覚めた意識です。
この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
HN:
Fiora & nobody