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見ている沈黙 その7


知る者が非顕現であり、知られるものが顕現だ。知られるものはつねに動いている。それは変化し、それ自体の形も、住処ももたない。知る者はすべての知識の不変の支持者だ。どちらも互いを必要としている。だが、実在はその彼方に在るのだ。ニサルガダッタ


観照者の位置づけと、実在がそこから断絶してしまう(何も必要としないため)ことまで遡り、とどまれば、完了だと思います。


なにこれ?
神様は隠していなかった。大海のなかで水がない!と叫んでいる私は滑稽そのものだった。神様が与えた贈り物と向き合うのが嫌で、後伸ばしにしていただけだった。悟りに直面するのを避けるという選択肢しかなかったんだ。わたしは悟ってないこそ唯一の妄想だった。と感じるようになります。


それはどういうことかと言うと、あるがままに気づいている「だけ」というこの「いまの姿」そのものがゴールだということです。そんなのつまらない!と感じられる方は誤解されています。


「私」がいる(と感じている)状態でこの言葉を聞いても、(実際に体験するまでは)感覚の予測がつかないからなんです。


いまこのままありのままを読み違えているんです。それは読んでるヤツ(=私)がいるからにすぎません。読んでるヤツが、もともといなかったことに気づくための旅なんです。夢オチなんです。読んでるヤツのことを私と呼び、守り、戦おうとする強迫観念は、愛から切り離された感覚による防衛反応です。


人が本当に望んでいるのは、
「私」がいないことと、それによる分離のない「光」への合流です。


私を守りたいんじゃありません。
「私がいると感じていること」に何よりも苦しんでいるんです。
苦しみの源はそれです。私がいるということはどこまでも分離を信じることだからです。


そして「私がいると感じている」場合、「抵抗が可能なような気がする」んです。
すべての抵抗は「私」から生まれています。
(私)はいないと気づいた瞬間に、抵抗の問題はきれいさっぱり消えてなくなります。
抵抗できるヤツが元々いなかったからです。無い袖は振れない。


(私)という幻の観念が遠くへ消え去り
代わりに
「あるがまま」という単一の空間だけが残ります。


「いま」とか「あるがまま」と呼ばれるこれは、今までだってずっと姿を顕していたのに、
(私)の色眼鏡では気づかなかったんです。


何に気づかないのかというと、
「私(という行為者が実在するという想念)」に
「気づきの光」が当たって
反対側に影のように「ネガティブ感情(と一般的に呼ばれる日陰な気持ち)」が生まれて
それに対してまた防衛反応を引き起こし
「私が策定した防衛戦略」を生きるようになり、ボロボロになるという構造全体にです。


たった一語です。


「私」


この発生源さえ突き止めれば、終わります。



ウッチャンは憑依芸だと言われてますよね。

この人と

この人と

この人と

この人あたりが浮き芸ではないかという説を聞きました。


一流の格闘家は勝ちたいと思う気持ちすら邪魔だと。
そのへんに浮いとけ、と。


でも私が好きなのは

この人です。以上です。



この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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