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見ている沈黙 その8


今夜はとりとめのない話です。

無想剣とは、一刀流の夢想剣を山岡鉄舟が自得した際に無想剣と書いたのでこちらの書き方にしてます。鉄舟はその際「我ナケレバ敵ナシ」と書き残しました。



無形(むぎょう)の位(くらい)とは新陰流の奥義です。


この異なる流派の奥義について、ではなくて、
「無想(むそう)」と「無形(むぎょう)」についてです。


現代の霊性の道も結局これなんですよね。


無想と無形の正体不明の「無」があるんです。この無が人をコントロールしてるんです。
運命を操る、マリオネットのように、あらゆる人を個別に導いてるんです。


出会いと別れのタイミングもそうだし、すべてこれのせいです。
部分的な偶然があるのだろうと思うところなんですが、純粋な意識のなかに含まれないものが一つもないため、偶然は欠片もないんです。


物質というのも結局意識であって、固体と捉えるより、流体と捉えていたほうがまだ誤りが小さいと思います。


求道者にとっては、「無想」こそが道です。
努力して達成するわけではなくて、本質の「無想」を思い出します。


「無形」がわかるという人はもう、完全覚醒者に近い人ばかりだと思います。
完全覚醒者は無形に「とどまりきる」人です。
形がないというのは、エネルギーでもないということです。
そして動いていないということであって、二極性を超越しています。
理性と心の追いつけない場所に入っていって、初めて無形がわかります。
無形は無限ということです。



高速道路で、車ではなく景色だけがこちらに向かってくる感覚を味わったことのない方はいないと思います。


視点の逆転です。言わば人間版「地動説」→「天動説」へ。


真我(本当のわたし)だけが静止している場合、正しいのは天動説ということになります。
「無想」と「無形」は不動の背景を示しているのであり、
自己同一視とは「有限のもの」が「私に違いない」という想念を今この瞬間に放射して世界を分割することです。


それは今この瞬間に対する
唯一の一(いつ)に対する
先入観です。



「知られるもの」と「光」の違いは、
顕現と非顕現の違い、動と静の違い。


世の中を二種類に分ける想念を信じる人と
無想の光で「在る」の違い。


そして、あらゆるものに「違いがない」彼方へ遡っていきます。



この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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