見ている沈黙 その5


真我はすべての体験の根底に在るものです。それはすべてを観照し、すべてを維持するものとして在り続けます。それゆえ、実在は目覚め、夢見、眠りという三つの状態とは異なったものなのです。


「そこに幸福はない」は単なる想念でしかありません。真我は至福であり、純粋でシンプルなものです。あなたは真我です。あなたは至福以外の何ものでもないのです。至福として在りながら、幸福がないと言うことはできません。真我が「幸福はない」と言うことはありえません。そう言うのは真我ではないものです。真我の至福を実現するためには、真我でないものを取り除かなければならないのです。


想念がどこから立ち現れるのか見いだしなさい。それは心です。心あるいは知性は誰にとって機能するのでしょうか?自我です。知性を自我の中に融かし去りなさい。そして自我の源を探し出しなさい。そうすれば、自我は消え去るでしょう。「私は知っている」と「私は知らない」は、主体と対象の存在を示唆しています。それらは二元性ゆえに存在するのです。真我は純粋で絶対、単一で単独です。一つの自己がもう一つの自己を知るというような二つの自己が存在するわけではありません。では二元性とは何でしょうか?それは単一で単独である真我ではありえません。それは真我ではないものに違いありません。二元性は自我の特徴です。想念が起こるとき、そこには二元性があります。それが自我なのです。その源を探りなさい。


想念の不在の度合いが、真我実現への進歩の度合いを示しています。しかし真我実現自体は進歩というものを認めません。それは常に同じです。真我は常に実現されているからです。障害は想念だけであり、進歩の度合いは真我が常に実現されているという理解への障害をどの程度取り除いたかによって知られるのです。それゆえ、想念は誰に起こっているのかと探求することによって、想念を止めなければなりません。源に向かいなさい。そこでは想念は起こらないのです。



誰もが真我であり、無限なのです。しかしみな身体を真我だと見なしてしまいます。何を知るにしても照らし出すものが必要となります。そのように輝き照らすものは光の質を持っているに違いありません。しかしその光は物理的な光と暗闇を照らしています。それゆえ、その光は顕現における光と闇を超えているのです。それ自体は光でも闇でもありません。それでも光と闇の両方を照らすため、それは光と呼ばれています。それはまた無限なるものであり、意識でもあります。意識とは誰もが気づいている真我のことです。誰も真我から離れている人はいません。それゆえ、誰もが真我を実現しているのです。それにもかかわらず、この基本的な事実を知らずに、誰もが真我を実現したいと熱望しているとは何という不思議でしょう。この無知は身体を真我と見なすことにあるのです。実現とは、「自分がまだ実現していない」という誤った概念を取り除くことにあります。実現とは何か新しいものを得ることではありません。それが永久的なものであるならば、すでにそこに存在しているはずです。そうでなければ実現しようと試みる価値はありません。


「私は身体だ」あるいは「私は実現していない」という偽りの観念が取り除かれたとき、至高の意識である真我だけが永遠に残ります。しかしながら、現在の知識においては、それが実現と呼ばれています。


究極的には、真我実現とは無知の消滅であって、それ以上でもそれ以下でもありません。



nobody
想念なし、私なし、分離なし。


「私」が国境線みたいなものです。行為者の「私」が存在するに決まってるという想念です。
「私」さえ押さえればその他すべてを押さえたことになります。



何者をも邪魔しないからこその自由です。



この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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