見ている沈黙 その3


人はみな何かを背負っている。
自由とは、背負っている何かからの自由だろうか。
違うのだ。
何かを背負っているのは「私」ではないという点なのだ。



仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法(まんぼう)に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心(しんじん)および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟せきの休かつなるあり、休かつなる悟せきを長長出ならしむ。


(現代語訳) 仏道をならうとは、自己をならうことである。自己をならうとは、自己を忘れることである。自己を忘れるとは、よろずのことどもに教えられることである。よろずのことどもに教えられるとは、自己の身心をも他己の身心をも脱ぎ捨てることである。悟りにいたったならば、そこでしばらく休むもよい。だが、やがてまたそこを大きく脱け出てゆかねばならない。



nobody
「分離している」と感じるあらゆる感覚が「想念」であることに気づくでしょうか。
自分と他人の皮膚がくっついていないという視覚データも想念です。
「彼らとは同じ空気を吸いたくない」も想念です。
分離は、していなかったのです。


自己をわするる=万法に証せらるる


自己をわするるとは、あらゆるものと関係をもたないということです。
関係性ゼロ。まったくのゼロ。
何とも関係をもたないとき何が残るでしょうか。真我だけが残ります。
ほんとうの現実が残ります。
あるがままです。


自己をわするるとは、関係を「持ちに行かない」ということです。


分離していなかったとは、独立したタイムラグがなかったということです。



この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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