見ている沈黙 その4


一頭のシマウマが傍若無人なエゴによって罵声を浴びせられています。
シマウマがあるがままなのか。
それとも、罵声を含む全体があるがままなのか。


どっちでもいいか。
どっちでもいい根拠は何でしょうか。わたしは在る、です。そして、私はいない。


どんな関係性も持とうとしないでください。
概念も観念も糞なのです。


完璧無敵、絶対神様、自由歓喜、愛愛愛。




そういう感覚の「光」があるとします。
あなたの中にその「光」があるから大丈夫などというのは嘘です。
あなたが「光」です。



あなたに「教師」が必要など、大嘘だということです。
道しるべ役の道端の人ができるのは、大嘘を思い込みで信じきっている自分に気づきましょうとかかしのように言うぐらいです。


道しるべ役が言うのはこれだけ。
あなた「選択できる」んですよ。無意味に苦しむ必要はありません。これだけです。
どのようにして選択するか、はまったく関係ありません。
なぜなら、あなたが光だからです。光になるためのハウツーなどあるわけありません。


選択できない、と思い込んでいることこそが苦しみを持続させます。


選択できる、と言うとAの道かBの道か右か左を選ぶみたいに思えますが違うんです。


「私」を持ち越すか。
「逃げない(立ち去らない)」か、を選べます。


逃げない(立ち去らない)とは、いま起こっていることをありのままに見るということです。


肉体を動かすことは関係ありません。
解釈や行動の前にある現実を、ありのままに見ている沈黙としての本当のわたしに気づいていることです。


難しそうに聞こえますが、「私」はいないことがわかる位置に立ってればいいです。
今この瞬間を見渡す。
どこかに「私」はいますか?いません。
そのまま「私」のいないあるがままを見ています。それだけがあります。




この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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