見ている沈黙 その9



目覚めた眠り。バリ3でございます。


瞑想とは何でしょうか?
それは想念を排除することです。
現在ある困難はすべて想念によるものです。
困難そのものが想念なのです。
想念を棄て去りなさい。
それが幸福であり瞑想です。


質問者 どうすれば想念を棄て去ることができるのでしょうか?


想念は考える者にとって現れます。
考える者の真我としてとどまりなさい。
そうすれば想念はやむでしょう。



質問者 わたしは画家で、絵を描くことによって生計を立てています。これは霊的見地から見て価値あることなのでしょうか?


マハラジ  あなたは絵を描くとき、何を想うのだろうか?


質問者 私が絵を描くときは、そこに絵と私自身があるだけです。


マハラジ  あなたはそこで何をしているのだろう?


質問者 絵を描いています。


マハラジ  そうではない。あなたは絵が描かれているのを見ているのだ。あなたは見守るだけで、それ以外はすべて起こるのだ。


一言で、コレなんです。
コレさえ体感できたならば、悩みは終わります。


見守るという語彙も本当は使いたくないです。主体が起こす行為に思えてしまうから。
この問答の画家さんはですね、絵を描くとき「私」は画家ですという想念とともに絵を描いてるんです。


「私」は画家です。いま絵を描くという行為をしています。
「私」は肉体です!(大抵の場合、手を動かすたびに強烈に繰り返し念じている)


この「私」がただの想念であること、どこからどのタイミングで出現したか、本当に「実体」をもっているのか、彼は確かめていないんです。


これを今この瞬間に確かめて(見渡して)
「私」がいない世界の感じを体感することなんです。


「世界から私だけがいなくなった感じ」
「剥き出しな感じ」
「さっきまで人が乗ってると思ってた小舟が、よく見たら誰も乗ってなかった感じ」


ニサルガダッタは「私は在る」という「存在の確実性」にのみ集中せよ、と誘導します。


別の言葉で言えば、「(行為者の)私はいない(そして残された観照)」に集中することでもあるんです。ダグラス・ハーディングの顔のない誘導にも共通する点かもしれません。


あらゆるエネルギーがまったく滞りなく流れ(さらさらと)
抵抗しようにも無理(だって私はいないから)


その自覚が常にある一なる空間で「在る」ことです。



光を思い出していく過程で、「防衛のなさ」加減がそのまま意識の広がりです。
自分で自分は騙せません。


防衛したいと感じていること自体が、防衛したいような自分だと感じている、信じている直接の証拠です。いまです。それは自己像という偏見が「在る」ことを知らせるためなんです。


これが神のエネルギーに近づけば近づくほど
まったく真逆とも言える精神状態に透き通っていきます。


大いなる光は常にあって、障害物を取り除くためにこの世に計画して生まれたんです。


アグレッシブに言い換えると、陰に出会うために生まれたんです。


いま、光「が」「計画した障害物」に出会っているんです。
この障害物を顕在化させることが必要だったから今回の人生が計画されました。


偶然はありません。
「今日を与えられた」のは「偶然ではない」ということです。



ぱおぱおー。特別な日です。
この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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