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「スプラナ(sphurana)」


輝き、振動を意味する。真我探求において「私」という想念の湧き起こる源に注意が向けられ、そこに純粋な存在としてとどまるとき、「私」は消え去り「私-私」という無音のスプラナがおのずと輝きだす。このスプラナさえも消え去ったとき、「私は身体だ」という形の自我は完全に破壊される。


やまさんが頭の中に振動があって、そこに意識を向けると静寂が訪れると発言されていたとき、やまさんは「成った」と思いました。私も同じように感じていたからです。


スピリチュアルブログのランキング1位の方が以前
人間の本質を「わずかに揺れ動いている光」
という描写をされていることがあったんですね(引用厳禁のブログのためこれだけ)。


この正体は人間の本当の姿
純粋な目覚めた意識(波=大いなる愛の光)です。
純粋さを感じる段階が、スプラナであり、振動です。
一部の透視能力者は球体の星(魂)も観測できるのだと思います。



阿修羅(asura)
サンスクリットでasu生命 ra与える
本来は生命を与える者の意。


手が何本もあります。一見便利ですが、その手にモノを持つたびに大事なことを忘れてしまうものです。


それは、持つ必要はない、という事実です。


持たなければ「ならない」と考えた理由があるはずです。


それは、「私」という行為者がいる、という基本発想に基づいています。


「私」こそが「しなければならない」という枠をはめています。


逆に「私」がいなかったら、と考えてみます。
「誰」が体を動かしているんでしょう?わかりません。
「誰」が食べ物や飲み物を摂取するタイミングを計っているんでしょう?わかりません。
「誰」がわからないんでしょう?…。


だんだん答えようがなくなり、質問しようもなくなります。
「私」がいないこの「世界」で世界を誰が認識するでしょうか。誰も認識しません。


ですから「私」が消えたら、みんな消えるんです。


みんなが生きているのは、みんなが笑っているのは、みんなが泣いているのは、
「私」がいるからなんです。


世界が「このようである」のは、
「私」がいるからなんです。


もっと平たくなります。
「このようである」のが「わたし」なんです。


観測者がいなくなると、「見る者」「見られるモノ」「見ること」が統合されます。
もともとこれらに分離はなかったと気づきます。


残るのは「見ること」だけです。
そして「見ること」という認識ができなくなります。


それは1でも0でも2でもない
「あるがまま」です。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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