人間が計画をたてる必要性を捨てるのは難しいことは分かっています。また物事がどうやって起こるのかを知ろうとするのを止めるのも難しいことは知っています。物事が起こるであろう手順を一つ一つ決めなければ、古いエネルギーでは何も起りませんでした。しかしそのようなエネルギーはもうありません。あなたにそのような働き方はしません。事実、今何かをしなければならないことは、任せることです!どうやって来るのかを問わずに人生に起こるままに任せるのです。唯一の問題は「いつ」、「どのように」を知る必要があると追求することです。疑いを持たずにそれは実現すると知る、いつ、どうやって成るかは重要ではないと知ることが、物事の実現に繋がるのです。どのように、いつ実現するかという制約をつけたり縛ったりすることは、変化や実現の過程を妨げることになります。ただ、任せていてください。
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こういったマインドの性質が独走しているときは全体性との調和を失います。マインドは自分のやり方以外を知りません。どの瞬間にも調和を見出すとき、それは虚空で在るときです。
根性論の正反対 これ。
これは尽きない。何をしても尽きない。
だから最も信頼できるものはこれです。言い方を変えればわたしは在るだし、いまだし、今この瞬間の気づきだし、分離のない存在です。
それは単に抽象的に思考しているわけではありません。
思考することもしないことも含む存在するすべて、全体を指しています。
唯一指せないもの、を指しています。
唯一指せない理由が「これ」だけは知識ではないからです。
知識にできるのは、過去だけです。
これが知識を含んでいるのであって、知識がこれを含むことはできません。
記憶はいまを包めず、いまが記憶を包んでいるのと同じです。
緊張は誤った自己像と根性論から生まれています。
「私」が「○○しなければならないだろう」
この「私」という遮蔽物により「これ」の究極の安定性に気づけません。
「これ」の破壊は不可能です。
「これ」はまた「あれ」である。「あれ」はまた「これ」である…。 「あれ」と「これ」が相対立しなくなるところにタオの真義がある。車軸のごときその真義だけが、限りなき変化に対応する輪の中心だ。-荘子-
この輪の中心が「虚空」です。
形に惑わされると思い出せませんが、忘れていても事実は変わりません。
この世でもあの世でも、存在しているのはたった一つの実在です。
このスクリーンまたはキャンバスに投影された映像を誤って受け取ることが
「振り回されている」ことです。
中心(絆)を忘れずに映像を楽しんでもらいたい
というのが本体側の願いなのでしょう。
本当を思い出さない限りリラックスできません。
ですから、苦しんだり緊張していると気づいたときに、
その原因が「私は単なる肉体である」という同一視にあることに気づきます。
逆にリラックスの体感は、同一視が外れることそのもの、つまり「わたしは在る」という方向に意識の焦点が向けられ、「私はこれだ、私はあれだ」が外れるときだと気づきます。
「在る」と「同一視」は両立できないんです。
Eckhart Tolle
人生はあなたの意識の進化に一番役に立つ経験をさせてくれます。それがどうして必要な経験と分かるのでしょう?あなたは今現に経験しているというのがその理由です。
この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
HN:
Fiora & nobody