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今この瞬間に、肉体としての着地点と気づきとしての着地点は違う


なにかしら重荷に感じるのは肉体としての着地点に降りてしまっているからです。肉体はモノから何から所有できますが、気づきに所有はありませんから複雑な問題は発生しません。


あるものがあるだけで、起こるものが起こるだけなのです。
あるものをないようにしようとか、起こるものを起こらないようにしようともできません。
そういう意図が起こった時点でくっきりと気づかれてしまうからです。
それらにこだわることもできません。
こだわるのはマインドの動きであることにも気づかれてしまうからです。



すべての努力はより多くの努力へと導く。
何であれ構築されたものは維持されなければならない。何であれ得たものは、衰退や喪失から保護されなければならない。何であれ失われるものは自己のものではないのだ。そしてあなた自身のものでないなら、いったいあなたにとって何の役に立つというのだろう?


私たちは物質でもなくエネルギーでもない。


偽りを破壊するために、あなたはあなたのもっとも根深い確信を疑わなければならない。そのなかで、あなたが身体であるという確信が最悪のものなのだ。身体とともに世界が現れ、世界とともに、世界を創造したと考えられている神が現れる。このようにして、恐れ、宗教、礼拝、捧げ物、あらゆる類の体系がはじまるのだ。


私があなたに話していることは、過去のなかにも、未来のなかにもない。また、今起こっているような日々の生活のなかにもないのだ。それは永遠であり、その永遠性の全体はマインドを超えている。


起こっているすべてのことの主体となり、客体であることをやめなさい。
主体と客体はともにあなたの中に存在するが、あなたはそのどちらでもないのだ。


ひとたび束縛はあなたが創りだしているということを理解し、あなたを拘束する鎖を鋳造することを止めれば、あなたは自由なのだ。


私には、あなたを私自身としてしか見ることができない。違いを見ないこと、それが愛の本質なのだ。


ほんの一瞬でさえ、自分が身体だと考えてはならない。あなた自身にいかなる名前も形も与えてはならない。実在は闇と沈黙の中で見いだされるのだ。


私はあなたに特定の方向を見るように言っているのではない。ただ、あなたのマインドのなかで起こっていることのすべてから目を離し、「私は在る」という感覚にそれを合わせなさい。「私は在る」は方向ではない。それはすべての方向を否定したものだ。最後には「私は在る」さえも去らなければならない。なぜなら、明白なことをいつまでも主張しつづける必要はないからだ。「私は在る」にマインドを合わせることは、単にマインドをほかのすべてからそむけることなのだ。


あなたは自己に対して完全に利己的になるか、完全に非利己的になるかのどちらかだ。「完全に」という言葉、それが重要なのだ。至高なるものに到達するためには、あなたは極端にならなければならない。


あなたは悟りを得るように運命づけられているのだということを理解しなさい。あなたの運命に協力しなさい。それに抗ってはいけない。それを妨げてはいけない。それが運命を全うするのを許しなさい。愚かなマインドがつくり出した障害に注意を払うこと、それがあなたのするべきすべてなのだ。


練習する必要も、プロセスもありません。あなたがこの瞬間に存在するか、存在しないかのどちらかしかないのです。


ところが、日常生活と人間関係において、根本的に実在に定着するようになるには、あなたはあるプロセスを経なくてはならないでしょう。


心の世界の内側に拘束されていることから永遠に自由になるには、利己性の束縛と独裁から自由になるには、あなたが実在から引き離される多くの点を、意識まで浮上させなくてはならないのです。


利己性の巧妙な動きのすべてに意識的な気づきをもたらすのです。あなたを困惑させ、誘惑し、騙して心の世界の内側に拘束する、利己性によって編み出された戦略のすべてを認識するのです。


あなたが心(マインド)のレベルで人生を体験しているときは、そこに居合わせる人が誰であっても、その人に対して非常に捉え難い方法でこのように話しているでしょう。


「私はすでにあなたを知っている。私はすでにあなたのことを経験上知っている。私はすでにあなたについての意見、批判、信念を持っている。だから、私はあなたと共にこの瞬間に存在する必要はない。私は過去のあなたを知っているから、この瞬間にあなたを知る必要はない」


愛とは、わたしはあなたとともにある。
ともにあるとは今この瞬間のすべてに開かれていることです。


私は身体!という先入観をもたずに、気づきとして在り、
マインドとの同一視を外し(マインドの動きに逐一気づき)
ともにあります。


同一視を外すことが観照です。



あの世では


第一に記憶が継続していることに注目すべきだと思います。脳の記憶と違って、より完全な記憶を持っています。どういう意味かと言うと、nobodyの体感で言えば


死ぬ最後の瞬間に目撃した風景があります。
言わば「最後の絵」です。
この最後の絵が、今まで体験したすべての人生分、並列に展覧されている部屋のような場所があるんです。


私がその部屋に入ったときの背景は宇宙空間のなかにいるような感じでしたが、意識は落ち着いています。


692回人生を体験していたら692枚の絵が並んでいます。
それらの人生は、時間が存在しないため「たった今終了した人生」として並べられています。


そして、これら692回の人生で洗い落とせなかった課題が残っています。
それが次の人生のテーマになりますが、その詳細を皇と話し合うのはもう少し後です。
人生の最後の絵を大きな文脈のなかで一覧している状態はなんとも言えない安堵感と放心状態に包まれているかもしれません。


後悔というのは、この人生で本来取り組み、落とすはずだった課題を達成できなかった、またはマトモに前向きに取り組めなかったと気づいた瞬間に大きめの後悔が生まれます。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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