善行でぼったくる人


それは善行なんでしょうか。神様がお会計9億5千万円になりますと言うことはないですよね。
それは神様が人に化けたときに初めて出てくる言葉です。


この地上では確かに必要経費という概念はあります。ありますが、
適性利益も必要経費も、それを言うのは人間だけです。


あえてnobodyの感覚で書きますが、お金を要求する奴には一銭も払わずに、(知恵があると判別できる場合は)その知恵だけをパクってやればいいのです。


知恵のある人が同時に結構な金額(単なる必要経費とはどうしても思えないくらいの額)を要求しているから、本当に大切な宝が疑われるんです。


水は地球がタダで与えてくれています。ミネラルウォーターとして100円の値段をつけるのは商人です。特別な水として水を20万円で売る人は更に頭おかしいです。そんな人から水を20万円で買う必要はどこにもないです。


入手するために水より労力のいらないものに、一体いくらの値札を貼りつけるんですか。
なんだか最近妙な値札が増えてきてもいます。



気づきが愛です。
でも気づきは普段「顕現(動くもの、形のあるもの)」に気づいているだけで、気づき自体には気づいていません。


気づきというのは「非顕現(色も形も動きもない)」であり、気づきが顕現だけではなく、非顕現にも同時に気づくと全瞬間が「愛」に満ちていることに気づきます。


非顕現が非顕現に気づくってコントロールできるのかと言うと、できません。
ですが、コントロールする必要もなく、最初から非顕現は非顕現に気づいているんです。
自由だと感じているのは、真から至福なのは、この本性です。


それを邪魔する想念放出の癖があって、さらに人のマインドがより大雑把なものにすぐ食いつく癖があるんですね。


愛という舞台の上で、不幸を題材にした演劇を繰り広げているというのが人の姿です。


だからマインドを「通さずに」、今この瞬間の気づきの働きに集中します。
気づきは勝手に働いていますから、その働きに集中します。
「私を通して」気づきを見ては本末転倒です。
「私を通さずに」気づきの働きに集中です。


そうすると気づき自体の座が明確になってきます。
それは常にあったものではないでしょうか。ですがその本当の流れというか姿の荘厳さに、気づかなかったのです。



一度も読んだことのないブログを訪れて突然驚きました。
どこのブログかは置いて、驚いた部分を引用させていただきます。


引用はじめ



<神霊|三位一体>


真神(主神/天帝)「天之御中主大神(大国常立尊)」
→霊徳「天照皇大御神/撞の大御神」


火祖神(霊)「高皇産霊大神」
→国常立神
厳の御魂:霊界人の主


水祖神(体)「神皇産霊大神」
→豊国主尊
瑞の御魂:現界人の主


真神は水火の息を呼吸し無限絶対に生命を保ち宇宙万物生命の源泉となり玉います



引用おわり


天之御中主大神がもし虚空を意味しているなら、皇との二重性を理解しているから「→霊徳」と書いている可能性があり、これを書いた人は非常に深い視力を持っている可能性があると感じました。


火祖神(霊界人の主)がもし炎を意味しているなら、天国の空気を記憶しているのかもしれないです。日之大神のこと。


水祖神(現界人の主)にいたっては、何のことを書いているのかわたしにはわかりません。見当もつきませんでした。


天之御中主大神の御精霊体の完備せるを天照皇大神、又は撞賢木厳能御魂天盛留向津媛之神言《つきさかきいづのみたまあまさかるむかつひめのみこと》と称し奉る。是れ撞《つき》の大神なり。ツキとは無限絶対、無始無終、過去、現在、未来一貫、至大無外、至小無内の意なり。


高皇産霊之神言は霊系を主宰し玉ひ、其精霊体は神伊邪那岐之神言と顕現し玉ひ、神皇産霊之神言は体系を主宰し玉ひ、其精霊体は神伊邪那美之神言と顕現し玉ふ。三神即一神にして瑞の身魂、三ツの身魂の表現なり。斯世の御先祖にして撞の大神に坐します也。開祖の神諭には天の御三体の大神と称えあり、又ミロクの大神、ツキの大神とも称え奉り、又天の御先祖様と称え奉りあり。


びっくりするようなすごいものが最近どんどん増えてきているような気がします。



いま何も追わない


この瞬間に通り過ぎる何かを追いかけることはできます。
意識の焦点はそちらに向けることができますし、それが自由です。


ですが、一なるものの自覚とはそれではありません。
何も追わないことが、追う前のスタート地点なわけです。


いま何も追わない立ち位置に立ってみてください。
それは行為ではありませんから、立ってみるという言い方もおかしいです。


最初からそこにいるわけです。
「私」の輪郭とは、造られて、維持するために延々と努力し続けなければならないと思い込んでいる観念でした。


肉体があるから、肉体と私がイコールだから、
肉体さえあれば「私を感じていないときも私がいる」という観念に騙されてしまいます。


何も追わないことです。
そうすれば明らかになっていきます。



大いなる愛の光


がすべてです。人生で出会うものがそれ以外であることはありません。
ですから不思議ですよね。


つらかった思い出も、いま現在の悩み事も、日々の挑戦も、あの人の涙も、生きててよかったと思える笑顔も、すべては大いなる愛の光です。


人生が困難なのは、大いなる愛の光に「頼みごと」をしていないからです。
自力で解決しなければならないと思い込んでいるから、限られた創造力で肉体や精神を酷使しているんです。


頼んでください。


頼んで、それが現実になることを目撃して、体感して、より光を身近に感じるようになります。このプロセスを毎日モーターのように回転させて、人生は変わります。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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