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なぜ神がみえないのかのメカニズム


一番「楽な」旅行を考えてみてください。
荷物はゼロがいいですし、移動はゼロがいいです。
持つのは疲れますし、足を一歩でも動かしたら疲れます。


ここが「一番楽」です。
一番楽がここです。


一番楽=ここ
この、一番楽の「連続」こそ現実だと気づくでしょうか。


だってそうです。この一番楽からは離れることも、逃げることもできません。
離れるというのは、


記憶と比較したときだけです。
(参照点がなければ、何かが何かから離れるとは言えません。一緒に移動してしまえば、止まっているのと体感は同じです。この「止まっている体感」が現実になりうるのかどうかよくよく自己検証するわけです)


もしここに「記憶を持ち込まないならば」
離れることはできません。


すべては「ここ」だからです。
「一番楽」で移動はゼロです。


神はここなんです。一番楽なんです。


だから、この一番楽な流れに対して


記憶の持ち込みをかけて、ここをジャッジする(受容しない)場合のみ
本当の神の姿に気づくことができなくなります。


それもシステムの一部です。
「忘れることも神の一部」です。


不純物が混じっているような気分になることも神の一部です。
神に不純物はありません。すべてが神です。


沈黙の流れを言葉によって妨げないでくださいと言われるのはそのためです。
今この瞬間の自分を許してくださいと言われるのはそのためです。
あるがままを受容してくださいと言われるのはそのためです。



遅い


自由意思をもって何かを変えようと思うときは、一歩「遅い」ということに気づくべきです。
変えようと思うのは、私が+変えようと思っているわけです。


1、私がいるんだから
2、私には変える力がきっとあるから
3、その力を行使して変えよう


この考え方は(小さな文脈では)正解です。何も間違っていません。
右手を上げようとすればいますぐ右手は上がります。これは紛れもなく自我によって意図された自由意思です。自我(記憶引用瞬間意識)は実在しますし、自由意思は実在します。
でも「遅い」んです。


私と自由意思は、もっと速い前提の上に成り立っている「後ろ側の」現象なんです。
この前提を先に明らかにしないかぎり、創造力は「私=肉体」「私=想念発生の主体」という思い込みによって限定されてしまいます。
そのままでは運命に振り回されてしまうだけです。


前提は、私がいると思い込む前に「在る」です。
努力する前に、考える前に、名前をつける前に、あらゆる概念の前に、動作の前に、すべての前に、


これが「在る」


これでもありません。
ただ「在る」。



魂が魂に与える影響 その相互のやりとり 光の連環


上の図の属性は無視してください。
球を一つの魂とし、それぞれが別の魂に影響を与えあっているとします。
この全体の環が炎です。


私たちはこの地球上では、兄弟姉妹の魂に与えた影響を軽んじています。
無知の極みのため仕方ありませんが、実際はこの相互影響こそがただ一人の実在です。


神の身体と言っていいと思います。
AさんがBさんに与えた影響、BさんがAさんに与えた影響は別々のものではなく、ひとつです。


この地上では分離しているように超一時的に「見える」というだけの話なんです。
見えるだけで地上でも分離していませんから、どちらかの影響に目をつぶってはなりません。


わたしたちは影響するために来たし、影響されるために来たんです。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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